14/4/27復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書40章9-11節 「伝道のため心を備える」

14/4/27復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書40章9-11節

「伝道のため心を備える」

 

どんな履物でしょうか。2000年前の地中海近辺の服装を想像したら、足首まで革紐でグルグル巻いたサンダルを想像されるかもしれません。あるいは、この御言葉が前のところから続く、神の武具の教えだと思いかえすなら、足の指が出ちゅうサンダルというよりは、ローマ兵が履く先の尖ったブーツではないかと言う学者もいます。神の武具ということで言えば、ブーツのほうが、神様の救い、福音を告げる教会の長い長い行軍にも耐えうるのではないかと、牧師として思います。

皆さん、この御言葉を聴いて、ん?と思ったかもしれません。御言葉を具体的にイメージして聴くと、ん?と思うのです。福音を履くのではなく、福音を告げる準備を履物とする。準備を履く?ちょっと耳慣れん表現じゃないでしょうか。もっとも福音を履くのも、何か踏みつけるみたいですから、その意味では福音を告げる準備を履くほうが、もっともな表現だとも思います。

平和の福音を告げる準備を足に履く。どういうことでしょう。

先週も申しましたが、私は中学時代、陸上をやっていました。最初の大会で1500メートルを走ったのですが、陸上部に入ったばっかりで準備ができてない。走り込みと気合は準備万端でした。が、トラックを走るスパイクの準備がなかった。たぶんお金がなくて最初から誰かに借りようと思うておったんでしょう。で、試合当日、足のサイズが同じ友達に貸してと頼んだら、えいけど、俺短距離やきスパイクの針が長いぞ、と言われて、え?長い針だと、トラックに深く刺さって1500メートルだと疲れるのです。背に腹は代えられず、借りましたが、全然勝手が違う。選手として、スパイクで走る準備をしてなかった。ボロボロでした。

キリスト者の足にも、やる気や大丈夫大丈夫という類の、自分なりの信仰ではなく、御言葉が教える通りの、具体的な準備がいるのです。

「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」

先に申しましたように、教会の歩み、キリスト者一人一人の歩みは、皆で、天国への行軍をしているというイメージで描き得ます。長い行軍です。死ぬまでの…言うたらしんどくなるので、復活するまでの(笑)、こっちが真実ですね、復活するまでの長い行軍を皆で行軍していくのが教会の日々の歩みです。その長い行軍に私たちの足が耐えるためには、裸足じゃ無理。ただ長いだけじゃなく、そこには格闘もありますから、アベベでも裸足じゃ無理。若い人は裸足のアベベで検索して下さい(笑)。長い行軍と闘いに備えさせる履物がいる。そしてその準備をしちょったら、自分たちの足に平和の福音を告げる準備をしちょったら、わたしについてきなさいと、福音の勝利の旗を掲げて招かれるキリストの救いの進軍に、はいと言って、ついていけるのです。

具体的に言うと、福音を頭で知っちょりさえしたら、もう知識として知っちゅうがやき、はい、じゃあ伝道頑張って…ではない。知識だけでキリストを伝えられるわけではない。トラクト一つ渡すにしても、ほい読みや、言うて、ぞんざいに渡すのは、平和の福音の告げ方ではないでしょう。平和の福音に相応しく告げる備え、愛の闘いに耐えうる準備を心に履くと言っても良いでしょう。トラクトを手渡す前に、ふ~言うて一呼吸、間をおいて、祈って、平和の福音を告げる備えを心の足に履いて、キリストの僕の足取りで、その人のもとに行って、天国が約束された人の、安心して平和な笑顔でトラクトを渡す。業務的、義務的にズカズカ行って、ほい。え、読まんが。ほいたらえいわ。それじゃ読むものも読まんなりますから、福音を告げる「準備」が、確かにいる。

拒絶されることも多いのです。吉永長老はギデオンで学校の前で聖書を配られておりますけど、よう心が折れんと思います。ギデオンの方々は準備を履いておられるから、拒絶に耐え得るのだと思います。行軍に険しい道はつきものです。特別伝道礼拝に家族友人を誘っても、一緒に来てくれんで求道者なしの特伝になるので、昨年には教会伝道懇談会を行って、リースつくり教室と、着物リフォーム教室の教室伝道が始まりました。それぞれに神様が求道の方々を一人ずつ連れて来て下さいましたが、私たちの心が折れんようにとの父の配慮であろうと感謝します。一人が一人を連れてくる、との伝道方針を今年も掲げます。教室は年に数回かもしれませんが、礼拝は一年に52回あります。入門講座も希望に応じて随時行っておりますし、家庭集会の希望も喜んで受け付けているのですけど、発破をかけたら来てくれるわけでもないという厳しさも、皆さん、よくご存じであろうと思います。もとより、伝道の行軍は長いのです。そのことをわきまえるためにも、伝道の備えを身に着ける必要があると御言葉は励まします。心が折れない備えとも言えるでしょう。すぐに結果が出なくても、そこに神様との平和があって、平安の内に、福音伝道の歩みを続けられるのです。心折れても、あきらめない。伝道にそれでも向かう準備が、私たちのキリスト者としての足を守ります。

もし最初から、伝道はしないという心備えだと、裸足で逆に危ないのです。敵は容赦なくその足を踏みに来るでしょうし、いつ足元にガラスを撒き散らしちゅうかわかりません。怪我をするのも危ないですが、敵の策略は、だったらもう歩まんと、教会と共に伝道に歩むことをやめさせることです。そうそう、伝道せんがまし、キリストに従うとガラスを踏むぞというのが策略で、それに対して神様がおっしゃるのが、だから平和の福音を履く準備を履きなさい。そしたら、あなたはキリストの愛の進軍についていけると言われるのです。

平和の福音を告げる準備を履いちゅう教会は、心折れるような試練にあっても、なお教会として立ち続けます。失敗しても結果が出んでも、伝道する備えをやめん教会がキリストの体なる教会です。以前、手術を失敗して、どうのこうのと叩く新聞の記事が続きましたが、仮にどこかの医大が、関係者がおるので大胆に言いますが、そこではなくて(笑)、架空の医大病院で手術が全然うまくいかず、もう手術はやめよう、で、今おる患者たちで励まし合って、医大やき勉強は続けるけど、手術も、外来も、もうやめよう、色々学んで励まし合って、ま、それでも来る人は受け入れるけど、それでえいやか…となったら、もうそれは病院じゃない。他にも薬くれん薬剤師とか、法律は学ぶけど正義は守らん弁護士とか、色々お笑いのネタとしてはありますが、伝道せん教会は笑えんでしょう。ならばこそ神様は、御子の血によって贖い、ご自分の宝とした教会が、そうなることのないように、今日の御言葉をくださいました。平和の福音を告げる準備を履きなさい。その準備が、あなたの足を守るから、そして、あなたの愛する者たちの命を守るからと。

先に言ったように、裸足だと色々とつまずきやすい。何があっても、もうやめるってならんためには、私たちが信じたキリストの福音を、それを信じて、洗礼を受けた、あの平和の福音から離れんことです。またこれを手放さず、この福音を、この神様との平和を、この人に手渡したいけど、どうしたらえいろうと、祈ること。御言葉に聴くこと。そして福音伝道を手放さんこと。信じた福音を、信じてもらえるよう、自らをキリストの証人として訓練することです。そしたら裸足じゃなくなります。ガラスの試練に遭って血が出ても、十字架の主の血に癒され、福音によって乗り越えていけます。主は私たちに、この福音によって強くなれとおっしゃる。あなたに平安があるようにと弟子たちにおっしゃった復活の主が、私たちにも言われるのです。平和の内に行きなさい。全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。教会はそのために立つのです。