14/3/16受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章10-13節、ゼカリヤ書3章 「巧みな策略に抗うため」

14/3/16受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章10-13節、ゼカリヤ書3章

「巧みな策略に抗うため」

 

神の武具を身に着けたご自分を、それぞれに想像してほしいと思います。古風な源平合戦風の鎧を想像されても、西洋中世の甲冑でも、あるいはローマ軍の身軽な装備でもかまんのですけど、その武具に身を包まれた自分を想像されて、さて次にその想像を、こう展開してください。その神の武具に身を包んで今ここにいる、私たちの姿を想像して頂きたい。事実、この武具を装備しているのは、個人個人の集まりではなく、神様から直々武具の装備を賜った、言わば神様の愛の軍隊としての教会だからです。めいめい好きな武具をつけた集まりだと、コスプレ会場と大差なくなってしまいますから、そうじゃない(笑)。私たちは平和の王に召された直属部隊として、主からこの装備を賜った福音の官軍です。ですから主から賜ったこの装備を身に着けるとき、自分が誰であるかがわかります。また自分がどこにいるのかがわかります。あ、ここは救いの戦場だとわかる。そして私はキリストの救いを人々に証する一兵卒、教会員であるのだとわかる。武具ってそうでしょう。武具を身に着けるとは、自分が誰に属し、何をすることを使命として頂いておるかを明らかにするものでもあります。また、先週言いました譬えで言えば、その心構えがゆるんでいると、ヘルメットのベルト締めてなかったり、腰のベルトさえゆるんでおって、剣の先が地面ひこずりよったり、それでは敵の得意とする不意打ちに対して、賜った武具の目的が果たせません。すなわち神の武具を身に着けるとは、自分が誰であり、その使命、召命が何であるのかをギュッと身に帯びて、私はキリスト者、キリストに属する教会員ですと、教会員、キリスト者として、しっかり立つということだ。そうイメージするとわかりよいかと思います。キリスト者である私は、どう立てばよいのかを自覚して立つ。それが神の武具を身に着けて、悪魔の策略に対抗して立つというイメージの、具体的心構えです。

で、敵はその具体的心構えを、ゆるめようとしてきます。それが策略です。策略と訳された言葉は、賢い悪巧みとも言い得る言葉で、まこと巧みです。人間の弱さを、また私は弱くないと強がっているところが、つけ込みどころだという強がりの弱みを、よく知っています。人に勝ちたければ、悪魔のやり方を学べばよい。ただそれではキリストの十字架の勝利を分かち合うことはできんので、その策略には乗らんで下さい。

具体的に言えば、私たちをキリスト者らしくさせない。それが教会に対する悪魔の策略です。キリストの体たる教会から神の武具を武装解除させ、言わば民間人のようにしてしまえば、福音が証されませんから、相手が極道な悪霊なら、後は放っておくんじゃないでしょうか。

キリスト者らしくと言っても、それぞれイメージが違うかもしれませんが、そこにも策略の影響があるかもしれません。キリスト者らしくと言ったら、聖書の語るキリスト者らしさ以外にはありませんし、それは聖書の語るキリストに似る以外にはない。聖書のキリストから、わたしについて来なさい、わたしに倣いなさいと招かれた私たちが、キリストのように造り変えられていくのが、キリスト者らしさですから、マタイ11章でイエス様ご自身おっしゃった、わたしは柔和で謙遜であるからというキリストらしく歩もうとする。それ抜きにキリスト者らしくとイメージしても、そのイメージはどこから来たが?となってしまう。無論、マタイ11章だけでなく、聖書全体が語るキリストのお姿を求め、その姿を愛し、その姿にある意味、癒され慰められながら、一歩でもそのお姿に近づきたい、あやかりたい、一つになりたいとキリストを追い求め、キリストに向かって体を伸ばす私たちの体を、キリストが掴み引き寄せて下さって、私たちをご自身の姿へと造り変えて下さる。それが聖化であり、聖書の語る、罪から救われるという具体的救いです。もちろん、救いは罪ゆえ裁きからの救いも含みます。そちらのほうが重たいのですけど、それで罪から救われるキリストの恵みをないがしろにして良いわけではありません。が、ないがしろにするよう、ないがしろにしたち罪が赦されるがやったらえいじゃいかと、赦され救われたのであれば、キリスト者らしくせんでもえいろうと誘うのが、まことに人間の弱さにつけ込む巧みな悪魔の策略です。

何故キリスト者らしくさせんよう策を巡らすのか。そしたら教会が、キリストの体らしくなくなって、福音の証ができんなるのと、そもそも福音の証をせんようになるからでしょう。ナルニア国物語を書いたC.S.ルイスが、悪魔の手紙という面白い書物を書いていますが、それに倣って言うならこうでしょう。キリストを信じて罪の赦しの洗礼を受けてしまって、もうキリストの手に落ちてしまった者らは、腹立たしいが仕方ない。が、まだキリストの手に落ちてない者らを、これ以上取られないようにするには、ああ、教会がキリストを証しないようにすればよい、あるいは嘘のキリストのイメージを証するよう、キリストのイメージを壊せばいい、いっひっひ。そういうことでしょう。

そのためには先に言いました嘘のキリスト者らしさに教会を誘いこめばよい。嘘には毒がありますが、嘘の毒は美味しそうに見える。しかもその毒に犯されたら、まさしくその毒の中毒になって、周りから、どうしてこの人は、このことになったらおかしくなるろうねえと思われる。それを熱狂主義とか偏狭主義、偏執主義とも言えるでしょう。嘘の対象は問いません。毒されるのは考えと態度です。例えば礼拝でさえ、礼拝せんと裁かれるという態度だと、神様より礼拝を拝むことになります。礼拝を偶像化する偏執的態度は、コラム・デオの態度ではありません。馴染みの言葉で言えば、その偏執的態度が律法主義です。

その逆にキリスト者の態度を世俗的考えと態度に汚染する、世俗主義という中毒もあります。例えば同じく礼拝を例にあげると、礼拝に毎週行かんでも大丈夫よという態度は、安息日を心に留めこれを聖別せよと求められる神様に心を留めんことになる。そうなると、御前から自分を引き離して、むしろ悪魔の支配領域に我が身を置くことになる。今日の御言葉が、邪悪な日によく抵抗し、と命じるのは、そういうことです。私たちの置かれているこの世の日々は無色透明ではありません。この世という言葉は神様から離れたという意味を含みますが、そうしたこの世の日々は、神様から人間を引き離そうと策を巡らす支配と諸霊のもとに置かれていると御言葉は既に2章から語ってきました。またこの邪悪な日々をイエス様がマタイ24章でおっしゃった言葉で言うと、こうです。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。神様の律法らあ守らいでも大丈夫やろうと無視する不法が、人々の態度に蔓延し世を支配する。そこでイエス様がおっしゃるには、多くの人の愛が冷えると言われる。律法を一言で集約すると愛です。心を尽くし精神を尽くし力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。そして、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。礼拝はその愛の具体化の代表です。それに対して神様を愛するより自分を愛し、それが普通よ、ほら見てみいと、言わば不法の正しさを証するこの世の日々を、魅力的に見せて、その実を食べても死ぬことはないと嘘をつくのが、最初からの蛇の策略です。不法は別名、反律法主義とも言われますが、わかりやすく言うと、キリストのイメージを壊すために、まず愛のイメージを壊すのです。自分を愛せばよいのだと。神を愛する?人の気持ちを考える?それも自分のためならいいんじゃないのと、私たちが思う愛のイメージから、その名を愛と呼ばれる神様を抜きにして、お前が中心にいない愛など何が良いのかと、愛を骨抜いたら、愛が冷たくなる。それが普通やかと証する邪悪な日々に抗い、抵抗し、違うで、愛は違うで、だって聖書にはこう書いちゅうき。私たちはこのことによって愛を知りました。キリストは私たちのために命を捨てて下さいました。だから私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。ヨハネの手紙一3章16節。愛が冷たくなる邪悪な日に抗ってしっかり立つためには、このキリストの救いの武具を身に着けなさい、神様の武具を身に着けて、あなたは神様の救いに立ちなさいと、今日の御言葉は語るのです。この十字架の愛の愚かさを身に着けて立つとき、この世とその支配者は、私たちにキリスト者らしさを認めるでしょう。

なお、そこでも策略は続きます。その愛そのものであられたキリストご自身、家族から、兄貴はおかしくなったと誤解されたほど、この愛は受け入れられにくい。その冷たさに、抵抗するために武具がいります。この愛に生きてキリストを証する福音伝道は、中々受け入れられない。この冷たい現実に抵抗するためにも私たちには神様の武具が必要です。愛が受け入れられないと私たちは傷つきます。誰も傷つきたくないですので、この愛に救われたキリスト者であっても、この愛を差し出す側に中々立てません。昔から、キリスト者殺すにゃ刃物はいらぬ、お前には愛がないと言えばよいと言われるのは本当でしょう。そうでなくとも、自分中心と闘わざるを得ないのが私たちですから、変な言い方になりますが、自分の愛のなさに挫折することを嫌がると、この愛に立つことはできません。しかし、そんな情けないキリスト者として、それでも私はこの愛に立ち、ここに私の命を投げ出しますと言える、ただ一つの場所がある。それがコラム・デオ、神様の御前です。そこではこの愛のない自分の自意識が無意味になって、むしろ愛のないそんな私であればこそキリストを主と依り頼み、ただただキリストの愛と憐れみに依りかかるキリスト一辺倒になって主にすがりつき、主よ、私のためでなく、私ではなく、あなたの御名の故に、この人をお救い下さい、そのために私を用いてい下さいと、キリストの名によって祈れる。そしたら立ち上がれるのです。もはや自分のためには立たんのです。キリストがこの愛のない私をも、何故だか愛に生きられる者として、笑顔で、柔和に謙遜に、この人に仕えるキリスト者として、救いの証人として用いて下さると、神様の御前で、キリストによって、救いの恵みに立てるのです。

キリスト者らしくされていく聖化の恵みは、そこに起こります。愛がないという攻撃も、主よ、愛のない私を赦し憐れみ、その愛で私を立たせて下さいと、救いの武具を着て跳ね返す。そのため死んで復活されたキリストを身に着けたキリストの体に、福音の光は輝くのです。