13/12/1待降節第一主日礼拝説教@高知東教会 イザヤ書9章1-6節、エフェソノ信徒への手紙2章14-18節 「平和の王が来られた」

13/12/1待降節第一主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書9章1-6節、エフェソノ信徒への手紙2章14-18節

「平和の王が来られた」

 

今日から待降節が始まります。このろうそくに毎週一本ずつ火を灯していって22日のクリスマス礼拝を迎えます。また24日の夜に行われるキャンドルサービスの礼拝でも、このろうそくが礼拝に光を与えます。それは今読みました御言葉に登場する光、闇の中に輝き出る救いの光の象徴でもあります。

先週配られた月間予定を見て、あ、今年の待降節はイヴの燭火礼拝で読まれる御言葉を順に説き明かすのだなと、もし発見なさった方がおられたら、褒美はないですけど(笑)すごいと思います。毎年読むだけで説き明かしは説教の御言葉だけですので、今年は一つ一つの御言葉を、ああ、こういう御言葉なのかと、その恵みを噛みしめたいと願い、一つ一つ順に説き明かしていきます。

その最初の御言葉がこれです。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。イエス様お誕生の預言です。この預言が、どういう状況で最初に語られたのか。それもまた、イエス様がどういう救いを私たちにもたらしに来られたのか、私たちを何から救って下さるのかを知るためには重要な知識です。神様は、私たちが何から救われなければならないと、イエス様をお与え下さったのでしょうか。

戦いです。今日の御言葉から見えてくるイメージは戦禍の悲惨です。人は戦争の悲惨から救われなければならない。よくおわかりのことだと思いますが、そのために神様が、永遠の御子を人として生まれさせなければならんかったとはどういうことか。問題は、何でイエス様なのかです。単に戦争がなくなったらえいにねえというだけなら、政治を勉強したらよいのかもしれません。でも政治なんてもう何千年もやってきて、いや国家の政治レベルまでいかずとも、どうして私たちは隣人と、家族とさえ仲良くできなくて争ってしまうのか。あるいは争っている人たちを仲良く和解させることができんのか。それさえできんで戦争を言うても、机上の空論、飲み屋でよく行われる俺が大統領やったらねゃという自己満足と大差ない。なら人はどうやって戦いから救われるのか。

預言者イザヤがこれを預言した状況は深刻です。当時、神様が世界に祝福をもたらすために興されたイスラエル国家は、既に二つの王国に分裂し互いに戦争をしておりました。北イスラエル王国と南ユダ王国がそれですが、特に北イスラエル王国はその初めから、ひとっちゃあ御言葉に従わず神様の言うことを聴かんので、預言者が次々送られて、そんなことしよったら正しい裁きが下されるぜよと、何度も律法の説き明かし預言が繰返しなされたのに聴かず、ついには今日の預言がなされた少し前、アッシリア帝国が攻めて来た。国の北方ガリラヤ地方が蹂躙され、若い者たちや夫たちが捕虜として連れて行かれた。後に残った人々が、一体どのような気持ちで毎日過ごしたか。何でこんなことになってしまったのか。人のせいにしても済まない。それでは前に進んでいけない。闇の中、死を考える。死の陰の地に住む自分たちにとって、一体いつ、この戦争は終わるのか。

その戦争を終わらせるために、神様がイザヤに語らせた預言が今日の預言です。一言で言えば、人間が神様と始めた戦争を、神様のほうから戦争終結の宣言をなさった。もう戦争は終わりだ。あなたがたは今後、王に惑わされ滅びることのないよう、わたしに逆らう王のもとでなく、新しい王のもとで生きなさい。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」だと、神様と戦争をして自ら悲惨を招いた人間に和平宣言をなさったというのが、このクリスマスの王の預言です。

この預言が当時依然として戦禍が残る状況の人々に、どのように受けとめられておったかを、もはや一人一人調査することはできませんが、一つ推測できるのは、預言の文法に引っかかった人はおったんじゃないかと思います。多くは完了形で語られているのに、目を開けて見たら、まだ軍服を着た占領兵がおって、自分は相変らず闇の中におって、その生まれた平和の王も、どこに生まれたのか、どこにおるのかと思う人は当然おったろうと思うのです。今もそうでしょう。既に預言は成就してイエス様がお生まれになったのに、例えば70年前の戦時下で天皇を拝めと迫害を受けていた日本の教会では、軍服を着た憲兵に見張られながら礼拝を捧げておって、その中でこの御言葉が読まれたら、じゃあ目の前の軍服は何なのかと思ったのじゃないか。イエス様を信じているのに、平和の王が来て下さったのに、何故戦いが続くのかと。現在私は戦いの渦中にあるということを、否応なしに思わされる一人一人にとっても、まだ終わっていない戦いの終結を、どうして神様は預言なさったかと、いぶかられるかもしれません。それに対する一つ目の答えは、この預言で用いられている完了形、つまり輝いたとか、喜び祝ったとか、焼き尽くされたという、既に完了した、という言い方が、時間に縛られた人間の視点でなく、その約束が本当に起こるか、真実か否かを問題にされる神様の視点から語られている。だから、時間的にはまだ起こっていなくても、確実に起こるから完了で語られるというのが一つ目の答えです。預言的完了とも呼ばれるのですが、時間じゃなく、確実性ゆえに完了で語る。例えば雪山で遭難して、もう終わったと思うのも、まだ終わってないのに完了で考えますし、そこでワンワンと救助犬の声が聞こえて、救助隊の姿が見えたら、助かったと思う。まだ脱出自体は完了してなくても、時間のゆえでなく、その確実性のゆえに助かったと言う。それが神様の語り口、預言的語り口でもあるのです。他にも聖書は、キリストに結ばれた者は、キリストと共に復活させられた、そして天の王座に共に座らせられたと語ります。え、まだ死んでませんがと思うのは時間に支配された考え方で、そこでキリストのご支配に身を置くなら、はい、と言えるのです。死ぬのは時間の問題ですが、復活はキリストの救助の確かさの問題だからです。救われたという言い方がそもそもそうです。時間的には私たちまだ死後の裁きにあってない。皆これから、死んだら神様の前で目が開いて、そこで人生の総決算を受ける。その裁きから救われるかどうかは、まだ時間的には誰も体験してないので、時間的には救われたと言うのはおかしい。しかし、キリストの赦しの確かさ、愛の確かさ、十字架で主が受けられた壮絶な罪の裁きが、私のためだったと十字架のキリストを仰ぎ、そこで主が叫ばれた、すべて完了した、裁きはわたしが引き受けて終わったとの御言葉の確かさを、私のための確かさだと信じる者にとっては、もう裁きから救われたのです。そのために生まれて下さったひとりのみどりごが、私たちが受けるべき罪の裁きを全部引き受けて十字架で裁かれ死なれて、裁きは完了した、終わったと裁きからの救いの宣言、和平の布告をなさったからです。

神様にあらがって戦争を起こして、自ら永遠の悲惨を招くはずだった人間の結末を、しかし神様ご自身が、その全責任を引き受けて、あなたのためにひとりのみどりごを与える。あなたの主、あなたの代表として生まれる平和の王を、わたしはあなたのために裁き死なせて、わたしはこの罪の戦争を終結させると父なる神様はイザヤに預言させた。そして預言全体の成就が、未だ時間的には完了してなくて、未だ戦いと戦禍が残っておっても、このことはもう起こったのです。キリストはもう来て下さって、私たちの結末を引き受けて下さった!そこから残りの預言の成就も、未だ時間の問題として戦いの渦中にありながらも、キリストの確かさの光に包まれるのです。キリストの光の下に全てを置いて、赦しと憐れみの勝利に負けた者として、王からの平和に生きられるのです。