13/11/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21節、レビ記19章13-18節 「しもべは愛の出発です」

13/11/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21節、レビ記19章13-18節

「しもべは愛の出発です」

 

短い言葉ですが、むしろそのほうがイメージはしやすいと思います。キリストを畏れ敬うからこそ、よしと互いに仕え合う教会のイメージ、またキリスト者のイメージ。どうでしょう、具体的にフッと浮かぶでしょうか。ん~と、もし思い浮かばんかったら、礼拝後の避難訓練で皆さんが如何に他の兄弟姉妹に配慮して非難されるか、よく見て頂けたらと思います。とか言って、またプレッシャーをかけてますが(笑)、どうか人を押しのけて椅子にもぐる人がおりませんように。

仕え合うというイメージで私がフッと思ったのは、人が嫌がってやりたがらん仕事を、じゃ私がやりますと引き受ける人、また急に頼まれたことを、え?と戸惑いながらも、はい、と引き受けられる方を見ると、僕だなあと嬉しく思います。前にも言いましたが、東神大の寮で各階の廊下に共同の電話がありまして、当時はまだ携帯もそんな持ってなかった時代です。で、電話がけたたましく鳴る。どうなるか。牧師になる人たちの寮です。こぞって取りに行くか。行かんのです。数人を除いて。一人は愛媛の郡中南教会で仕えておられる小林先生。いつも取っていました。中には誰か取れ~って叫ぶだけの人もいました。これは仕える僕と言うよりは上司のやることでしょうか。でもそういう上司は嫌われるでしょう。あるいはそれが社会の当たり前でしょうか。教会はそうではないでしょうと主は言われるのです。

仕える僕のイメージは、言い換えれば、愛するイメージだと言っても良いと思います。心からそう思います。僕になることなしに愛することってできるのでしょうか。自分が誰かを愛しているかどうか、どこでわかるかというと、人に仕える僕の態度と行いがあるかどうかでしょう。愛って何でしょうか。今更な質問に聞こえるかもしれませんが、案外、イメージしにくいのが神様の命じられる愛だと思います。隣人を愛せよと主から求められていると知っていても、その具体的な愛のイメージができなければ、具体的実践はできんでしょう。天の父に祈るのと同じで祈りの具体的イメージを持ってなければ、祈りようがない。どう隣人を愛すればよいのか。抽象的になった愛は愛でないことを、この御言葉は見抜くようにして、互いに仕え合いなさい、そのことで霊に満たされ、具体的にキリストに満ちなさいと命じるのです。

聖霊様に満たされるとは、キリストの具体的な愛の姿に満ちることです。それをこの5章の冒頭、前の頁の1節は、神様に倣う者となりなさいと言いました。そしてそれはすぐ具体的にイメージ化されて、それはキリストのように自分を犠牲にして愛することだ、だからあなたがたも愛によって歩みなさいと、神の家族の生き方が示されていました。そらそうでしょう。神様に倣えと言われても、イメージができんと倣えません。何に倣うのか。すごく具体的です。キリストが私たちの救いのために僕となられて仕えられたように、それに倣って仕えなさい。それが愛だと知っているでしょうと、今日の御言葉に流れ込みます。

仕えると訳された言葉の直訳は、下に配置するという言葉で、誰かの下について軍令に従うという、軍隊用語だった言葉です。軍令とは物騒ですが、教会の軍令は愛です。教会は神の愛の軍隊ですから、もし個人主義の集まりに堕したら、口だけ言葉だけの抽象的宗教に堕すか、行いはあっても、それが個人の自己実現という具体化になるのは必然です。仕える愛は、人の下に自らを配属させ、その人の僕となって仕えることを意味します。ですから、人に良くしてあげても見返りがなく、こんなにしてあげているのにと、その人の上に立ちません。成功・出世主義が人の上に立てと言うのは、皆さんもイメージしやすいと思いますけど、こういう実例もリアルじゃないでしょうか。先の東神大時代、近所に長崎ちゃんぽんの店がありまして、時々ちゃんぽんが確か200円ぐらいの日があって友人たちと行きました。ら、お昼、妙齢のご婦人方が安いからか数名で来ておって、食後レジの前で、奥様ここは私が、いえ今日は私が、い~えいけませんここは…と延々とやっているのを友人が見て、やだね200円で恩を売ろうとして、と言った。払って人に仕えるようでいて、実は人の上に立とうとすることってあるなと、やけにリアルに、これもイメージと共に焼き付いている記憶です。

じゃあ、イエス様に倣い、仕える僕のイメージってどんなでしょう。例えば、200円出すと言われたら、そこで自分がそれをどう感じ思うかに、こだわらず、相手の気持ちを考えて、じゃ今日はありがとうございますと、その人の下に立って、謙虚に微笑んだら、払う側も気持ち良く払って、密かに偉ぶりたい心も静まるんじゃないでしょうか。

話を聴くのも僕の態度でしょうか。偉い人は言いたがるし、聴けないように思います。話を避けたり遮れるのは偉い人の立ち位置でしょう。イエス様は弟子たちが遮ろうとした人々の声をよく聴かれました。柔和で謙遜な者になりなさいと招かれたのも、僕になりなさいと招かれたのです。罪人の仲間と数えられることさえ厭わない、柔らかな柔和と謙遜です。むしろ罪人の側に立ったって良いのだ、罪を犯す全ての人の代表として、その罪責を僕となって全部担って死んだって良いと考えた末、人となられて十字架で人の罪責を負われたイエス様の態度。それは悪や罪を許容する懐の太さがある偉いボスみたいに、俺に任いちょけというのではない。むしろ罪に敏感で、痛み傷つきやすい柔和な態度だから、痛み故その罪を無視できず、またその人から逃げることもしない。自己責任にして逃げないで、一緒に立つ。しかもその人の下に自らを配置して、天の父の御前にひざまずき、この人を、裁きから、また罪の力からお救い下さい、助けて下さいと父に執り成す。それがイエス様に倣う僕の態度でしょう。偉くない心は傷つきやすい心ですけど、そのぶん人に優しくできます。優しく仕える勇気を持って、自分の十字架を負って、わたしに倣いなさいとキリストは私たちを招かれるのです。

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合えと言われた意味も、そこでおわかりになるのではないかと思います。人を愛し仕えるため、その人の下に身を置くときに、痛みを負うこともあるのです。自己実現から、愛の人になりたいというような思いは、そこで打ち砕かれざるを得ん厳しさがこの愛にはあります。憧れだけでなく、畏れの感情、畏敬の念とも言いますが、憧れ夢見る高揚感とは正反対に、冷静で目を覚まされるような思いがそこには必要だと言う。目が覚めるような畏敬というのは、私は一体自分を何様だと思っていたのかと、自分の傲慢や甘さ罪深さといった、難しい言葉で言えば自己認識の甘さに目が覚めて、私が私の力や意志で僕になるのではないと、私にはキリストが必要ですとキリスト認識を新たにすること。キリストに改めて、あなたが主ですと告白し、イエス様、どうか私をあなたの望まれる僕にしてくださいと、主が、わたしに従いなさいと招かれた僕の道に、それでもはいと、いやそれだからこそ、畏れをもって、主の前に襟を正して、はいと向き合える。自分でなく主が、この人に仕えなさいと招かれたのだと、キリストの僕として仕える愛が、そこでスタートするのです。

主を畏れることは知恵の初めという御言葉もあります。すぐ前15節も知恵の必要を説いたのです。考えることと主への畏れとはセットだとも言えます。自分だけ見て考えてないときには、大丈夫大丈夫とか、俺に任いちょけとかって甘く考える。皆さんもおわかりのことだと思いますけど、主を畏れる僕は考えるのです。何を言われても、はいはい考えんと従うのではなくて、逆に考えないと僕になれん。そもそも具体的愛は相手の気持ちを考えることから始まります。自分の気持ちからスタートしない。考えないと僕になれない。人の気持ちや痛みを考えられるのが優しさだから、と言えばわかりよいでしょうか。でもそこで、人からもスタートしないで、キリストを畏れることから始めるのです。

キリストを畏れ敬って仕えるというのは、言い換えれば、キリストを僕の中の僕という意味で、主と崇め、ひれ伏して、主よ、あなたが私たちのことを考えられるように、私も自分ではなく、人のことを考えて、自分を捨てて、あなたの愛の業、執り成しの御業にお仕えしたいのですと、救い主としてのキリストにお仕えすることです。キリストを意識すると言い換えても良いでしょうか。霊に満たされるとは、そのキリストのご臨在、共におられるインマヌエルと共に歩むことです。意識していようとしていまいと、共におられる主であるのなら、ならば主よ、あなたと共に生きたいのですと、キリストと共なる愛の歩みを、具体的に、僕となって仕えて生きる。

互いに、です。自分は例外という人はいません。キリストの体の中に僕でない部分はありませんし、なれない部分もないのです。キリストに結ばれたら、皆、僕です。私たちが僕としての生涯を全うできるようにキリストが私たちに仕えて下さっている、そのキリストを畏れ敬って、私たちは互いに仕え合うのです。