13/9/29朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙5章8-10節、イザヤ書60章1-7節
「暗闇だったのが光に!」
何が主に喜ばれるか。主に結ばれて、キリストにギュッと一つに結ばれて歩むことです。それを光の子として歩みなさいと、御言葉は幾分かまぶしいイメージで私たちの生き方を確認させます。光の子。直訳は、光の子供たちです。なら一つのイメージは、今この礼拝堂の中が光っている。どんな光か。それも具体的にイメージしたら良いと思います。顔が光っているのか。心が光っているのか。生活が光っているのか。またどんな光でしょう。ギラギラ、あるいはサンサンと静かで柔和な光か。先日ある牧師と話をしておって、いや~最近の若い牧師は草食というか情熱が感じられないと言いますから、ん~言いたいことはわかるけど、賜物の違いもあるかもしれんし、言わば最近はLEDみたいなクールな光で人々を照らす牧師が多くて、俺らみたいな白熱電球のフィラメントがカー!いうて熱く光って、光だけじゃなく熱も出て、そのうちバチンてフィラメント切れて電球の底でシャリシャリ~いう、そんな召命だけやないいうことよ、と笑いながら話をしました。本当にそう思うのです。光=熱いではないと思います。熱さも賜物だと思いますけど、押しつけがましい熱さというのが、恵みの賜物の乱用であるというのは、私たちわきまえてなくてはならないと思います。明らかにこの光のイメージは後の14節で語られる、キリストの光のイメージから来ているからです。キリストを私たちはどんなお方だと信じるか。個人の好みで信じるのでなく、性格に合わせて信じるのでなく、何が主に喜ばれる光のイメージであるのかも、何が主に喜ばれるキリスト信仰であるのかも、御言葉の光に照らされて、信じさせて頂けることが大切です。自分が喜ぶ信仰のイメージが、熱いとか、ギラギラとか、自分にグッとくる信仰かどうかは二の次で、それこそ吟味せないけません。主に結ばれてこその光ですから、それがどういった光であるのか、恵みのキリスト、十字架のキリスト、赦しと招きのキリストの光に照らされることを改めて祈りつつ、御言葉に聴きたいと願います。ここで光っている私たち、あなたがたは主に結ばれて光となっていますと、御言葉が語る私たちが、どんな光としてこの礼拝堂を満たしているのか、共に見させて頂きたいのです。
私たちが光であるのは、主に結ばれているからです。フィラメントの光であれば、そこに電気としての光が流れてこんかったら冷たい金属に過ぎんのであって、結ばれて流れてピカーです。LEDがどんな仕組みで光っているのか全くわかりませんけれど、結ばれて光るのは確かです。あるいは光ファイバーのイメージであれば、あれファイバー繊維が全部光ってつながって、先端が美しく光りますから、電気が光になるというより、光がそのまま伝わってくる。イエス様の光がそのまま伝わって、私たちはイエス様が発する光を、これが私も受けた光ですと手渡ししていけばよいとイメージできます。無論、その場合には、ファイバー繊維の透明さ、あるいは清さ、自分の欲望という混じり気のない純粋さが、光をそのまま伝えるには要求されます。だから主が私たちに清さを求められるということも、わかりよいのではないでしょうか。キリスト者は清くないといかんから!というより、そうやって光が人々に届くことで人が救われていくことが、主の喜ばれることだからです。キリストもそのために光として来られたのです。だから、イエス様、私を清めて用いて下さいと、祈り努力する歩みもまた、主に喜ばれる光の歩みです。
そうやって祈るたび、ファイバーの結びが清められ、光の通り良き管になるとも言えるでしょう。その管または結びのパイプが、私たちと主を結ぶ聖霊様、三位一体の御霊なる神様です。その聖霊様が主の御言葉を心に届けて光らせて下さるので、私たちはそこでキリストの招きを聴くことができます。あなたはこの言葉を信じるか。わたしをあなたの主と信じるか。その主の招きに、はい、と応える、その応答が信仰です。そしてこの招きと応答が行き交いするのが、私たちが主に結ばれているという事実の一つの具体的現れであり、聖霊様のお働きです。ですからこの信仰の行き交いは、とても大切です。この行き交い、あるいは信仰の祈りとも言えるでしょうけど、これが具体的に私たちを光の子として清め、純粋にしますから、ぜひ御言葉に、はいと応え祈る生活、光の子として歩む霊的生活を、皆で大切にしていきたいと願います。
今ずっと具体的な話ばかりしていますが、今週の御言葉は相当具体的なのです。ま、ずっと具体的ですが(笑)、ここは特に強く、説得をしゆう御言葉です。あなたがたは以前には暗闇でしたと語る言葉は、単なる説明ではありません。もう違うでしょうと呼びかけているのです。ともすると光が暗闇のように生きてしまう厳しい現実があるからです。ですから、光のイメージだけ語って、ま、そうは言うけど…で終わらんようにしているとも言える程、強い言い方です。キリストに結ばれる以前、暗闇の中にいましたとは言わず、暗闇でしたと言います。じゃあ現在はどんな生活環境かと言えば、相変わらず罪に囲まれているとも言えるのです。家の外には、あるいは内にも罪へと誘う誘惑は多く、自分の心の内にさえ、主に喜ばれる歩みより、自分を喜ばせたいという暗い欲望がある。それが聖書の語る私たちの状況であり、光ファイバーとして歩むには清めが必要である理由です。ですから教会生活を、形成して、光の子供たちとして具体的に歩める神の家族の生活を育んで、共に、一緒に歩みなさいと語られてきた。教会生活形成が、4章後半からずっと語られてきたのです、が、一番の問題は環境ではない。確かに環境は私たちの予想を遥かに凌駕して信仰を左右しますが、救いを左右するのは環境ではない。主に結ばれているかどうかなのです。逆に言えば、環境は私たちの信仰を左右しますが、救いを左右することはできません。環境が如何であろうと、どんなに素晴らしい環境であっても、どんなに最悪な状況であっても、主に結ばれているならば、私たちはもう暗闇でなく、主に結ばれて光なのです。闇はいつでも周りにありますし、自分の心にもあるのです。光しかない環境は天国に行くまでありえません。でも、ならばこそ天の父が、私たちの環境や状況に左右されることない絶対的救いの根拠として与えて下さった、キリストに結ばれているならば、人はそのままで光なのです。改めて言いますが、なおそこに、闇の影響はあり続けます。様々な問題を引き起こし、環境を暗くします。しかし、それでも人が救われるためにこそ、父はキリストに結ばれる救いをくださいました。払い除けきれず、払拭しきれない罪ならばこそ、赦す他に道はないだろうと、あなたに道を与えると、キリストを十字架に付けられて、わたしのもとに来なさいと、招き続けておられるのです。更には罪を赦すだけでなく、闇を完全に解決するため、今のままでは消えない闇も、闇は完全に消し去ってしまうと、罪の完全な克服である、復活に生きられる消えない希望を、父はキリストを通して世界に差し出して、あなたに救いの光を与える。あなたの全てを受け止めて、あなたと共にいる、あなたの救い主に、あなたは結ばれてしまいなさい。そしてあなたも光となって、闇の世に救いの道を照らす光の子、わたしの家族になりなさいと、皆を招いておられるのです。
闇はやがて消えます。私たちはそんなものに繋がれ結ばれてはおらんのです。御言葉は断言します。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。私たちはキリストのもとに来たのです。もうこの道の上にいるのです。キリストが私たちを招いておられます。わたしに従いなさい。その道を、キリストに従って歩むとは、キリストの愛される人々のもとに、光を届けに行く歩みです。キリストの発する赦しの光、恵みの光、新しく生きられる復活の光を、キリストに結ばれた光ファイバーの先端として、誠実に歩めばよいのです。特別に何かをするのではありません。自分の受けているキリストの光、柔和で謙遜な恵みの光を、私はこれに照らされて歩んでいますと、置かれた場所で歩むのです。自分が毎日を歩んでいる、その半径何メートルか、何十メートルかの環境で、自分自身、恵みに照らされて歩めばよい。
今日の御言葉が語るのは、言わばそうした毎日の歩みの確認でして、その確認事項が、9節の―で挟まれた部分なのですが、訳の問題でわかりにくくなっています。直訳すると、―光の結ぶ実りは善と義と真理の内にありますから―何が主に喜ばれるかを受け止め納得しながら、あるいは味わい知りながら、光の子供たちとして歩みなさい。実りとは毎日の生活で私たちが実際に語る言葉や行いです。それを半径何メートルかの人々が耳にし目にする。それがキリストファイバーの先端として結ぶ実になっているのか、それとも続く11節で言われる闇の業になってないか、確認するのです。イエス様の良く知られた言葉で言えば、あなたがたは地の塩であるから、塩が塩気をなくさんように塩として塩気を保ちなさい。これに該当するでしょう。なら、どうやって光気を保つのか。自分の言葉と行いを知るのです。例えば今の言葉は、善と義と真理の内にあるか。人の気持ちを考えて、聴く人を建て上げる恵みの言葉、善の言葉を語ったか。そこに自分の正しさの主張とか自己正当化ではなく、キリストの義が現わされ、柔和で謙遜なキリストの光が照らされていたか。自己満足の義になってなかったか。キリストが、わたしは道であり真理であり命であると言われた、そのキリストの真理を求め、倣って、イエス様やったらどう言うろうかと、キリストすること、真理することを求めるときに、自分の歩みが、無責任な歩みにならなくてすみます。むしろ、主が喜ばれることが何であるか、考えるようになる。御言葉は何でこう…、あ、そうか。だから愛するのか。だから自分の力でなく、恵みなのか。そうか、そうかと一つ一つ、御言葉に納得するとも言えるでしょう。そして実際に主に従って、人を建て上げる恵みを語り、主の愛に生きる真理に努めるとき、拙い愛であったとしても、そこで味わい知るのです。これが光の結ぶ実かと、御言葉が語るのはこういうことかと、実体験として納得できるのが、主に結ばれての歩みだからです。また、そのための光の子供たち、という単位でもあります。独り善がりになり易い闇があればこそ、家族で、教会で光の束として歩むのです。礼拝で、ここに主の喜びがあることを味わい知りながら歩めるのです。