13/9/1朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙5章1-2節、レビ記19章1-2節
「愛を負う背を見る子供」
キリスト者の生活を何よりも特徴づけるキーワードは愛です。しかも神の子供たちの愛、家族愛だと言うのが、今週の御言葉の急所です。
神に愛されている子供ですからと訳されてしまうと、どうも個人主義的に、一人一人めいめい自己責任でやる愛みたいに、私には聞こえてしまうのですけど、もとの言葉は、子供たちです。2章で神の家族と言われていたイメージで考えたほうがわかりやすいでしょう。何で私たちの生活が愛に特徴づけられるか言うたら、わたしたちの父が、その名を愛と呼ばれる父であり、私たちはその子供たちなので、理屈でなく、そうだと言うのです。私の子供たちが牧師の子供なのと同じで、いくら理屈をこねても、そうであるものは、そうだと言うのが、あなたがたは神様に愛されている子供たちですから、ですから、という言葉の強さです。
もう大人になられたある牧師の長女の証ですが、小さい頃、運動会が日曜の朝からありますから、両親が運動会の午前中に来たことは一度もなかった。でもそんなの私は牧師の子供なんだから当たり前と思って、お昼、母親がせめてお昼を娘と一緒にとぜえぜえ言いながら走って来たら、お友達の家族と一緒にお弁当を囲んだのがすごく楽しくて、むしろお母さんが気の毒やったと言っておられました。私はその父親を知っておりまして、そうかすごい牧師だと思っていたけど、だからすごいのだと思いました。父として尊敬される歩み方を小さな子供にも分かるよう歩んでおられたのだと思います。自分は父に愛されているとの安心と、またそのための会話のやりとりとを、大切にされておったのでしょう。私たちは神様の子供たちであるという自覚も、家族の御言葉の交わりの中で養われ、保たれていくものです。そうか、私たちは神様の子供たちなのだという自覚が強くなるにつれ、生活も変わっていくものです。
その神様に倣いなさい。特に、愛に歩むことにおいて、あなたがたは神様の子供たちとして、神の家族として、神様の愛に歩みなさい。別の言い方をすれば、神の家族には、家族の生活スタイルがあるということです。子供たちは、その生活スタイルを、親に倣って身に着けていく。うちの例を上げると、皆さんも、ひょっと耳にしたことがあるかもしれませんが、私はよくうちの子供たちに、考えなさいと言います。今日、子供らがおらんので言えるのですが(笑)、親に似て、どちらとは言いませんが、思いつきでパッと行動した結果、怒られることが多い。ですので、これをしたらどうなるか、考えなさいと言う。で、考えたと言う。たぶん考えたのでしょうけど、でも、そしたらもっと優しい言葉で言えたがやない?考えるがは、人の気持ちを考えるがで。自分のことだけを考えるがは、何にも考えてないがで、と教えます。教えながら、いま私は子供の気持ちを考えながら、でも神様の前に責任ある親として教えたろうかと自問する時もあります。厳しくも優しく追い詰めることなく、むしろ導くことが出来たろうかと反省することも度々です。こうしたらえいがで、と実際に見て倣うのが一番ですから、いっつもお父さんもお母さんもやりゆうろうって、導くように心がけています。
そうやって神の家族の生活スタイルを、皆で身に着けていくのです。だって、他の家はこうやりゆうとか、子供だけでなく、大人も考えがちですけど、それならこう考えて自分たちに言い聞かせることもできるのです。だって、うちはお父さんがこうやりゆうき。親が牧師どころじゃない。天の父が私たちのお父さんですから、だから、愛に生きるがは、当たり前やき。そら辛いときもあるけど、だってお父さんの名前、愛やき。それが私たち、愛されている子供たちじゃないかと、御言葉は私たちが誰であるのか、改めて私たちの家の表札を示すのです。
さっき、愛に生きるのは、そりゃ辛いけどと言いました。それも含めて神様に倣うことを教えるため、またこの生活スタイルが、教会生活のスタイルであることをも強調するため、神様に倣う教会の歩みが、すぐさまキリストの愛に歩みなさいと具体化されます。キリストの愛に倣うとき、愛は綺麗事じゃないとすぐわかります。私たちの愛する相手が、じゃあ私たちを愛してくれるかと言うと、いつもそうではないのです。怒った眼差しが突き刺さる時もあるでしょう。無視されることなど度々でしょう。あんまり言うと辛くなるのでやめますが、それがキリストが私たちを救うため、十字架で自分を捨てられて、私たちを愛された愛である。ヨハネの手紙を引用すれば「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ハッピーラブラブなところよりもあるいは真実に、ここに愛がある!と語るキリストの十字架のもとで、私たちは、その名を愛と呼ばれる方を、真実、そのままに見るのです。そこでは愛の偶像も神の偶像も造らんでよい。自分の人生も偶像化せず嘘を歩むことから救われる道、それが十字架の愛の道です。イエス様はわたしを見た者は父を見たのだと言われました。私たちが真実、神様に倣いたい、父を父としてあがめたいと願うその道は、キリストの十字架のもとからスーッと伸びて、私たちをその道に招きつつ、天の父のもとに向かっています。この十字架のもとに立って父に祈るとき、あなたもわたしの愛する子だと、父の愛が染みてきます。私たちを御ふところに招いて語りかけて下さる父の喜びがわかるのです。
キリストに倣うところで父に倣える、その愛の道の急所を二つ、最後に説き明かします。一つは、私たちのためにと訳された言葉、これは、身代わりにと訳せる言葉です。それが自分を生け贄として捧げるという意味でもあります。愛は、自分を捨てるのです。イエス様もこう招かれました。わたしについてくる者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについてきなさい。そこで愛の入口が開かれるからです。自分を考えないというのではありません。イエス様も十字架を前にして、私の願いはこうですと言われました。どうしても考えてしまうその自分を、でも、この人のためなら捨ててもよいと考えて、英語で言えばgive upする。自分をあきらめるとも訳せますけど、上に与えるのです。捧げると言ったほうがよいのです。私たちが自分をgive upして捧げる上は、虚しい空中ではありません。そこで父が、私たちを受け取って下さる。だから、その愛は虚しくならんのです。
だから愛は、父に捧げる。これが愛の二つ目の急所です。キリストは御自分を私たちに捧げたのでなく、私たちのために、父に御自分を捧げられました。どうぞわたしを犠牲として用いて、この人たちの罪を赦して下さい、わたしを用いて、どうか、父よと、父に捧げられたのです。人に捧げて裏切られない愛ってあるのでしょうか。でも父は人ではありません。神様は人ではありません。むしろ、愛を裏切る人を救うため、御子をくださった愛なる父です。その父を信じて、父にお捧げする愛の生け贄は、父が責任をもって受け取って下さいます。その父に向かって捧げるのです。私をこの人のために用いて下さい。この人が救われるためなら、救いに導かれるためであるなら、私は私の十字架を負います、私をあなたにお捧げします、父よ、聖別して下さい、聖めて御用に用いて下さいと、ここに捧げてしまうのです。人でなく父に捧げる愛であれば、私はあなたにこんなにもしてやっているのにという迷惑な愛にならなくてすみます。それは愛の自由な体験です。父もその愛の香りを喜ばれます。どんなに小さく拙くっても、父に捧げた私たちの愛は、決して無駄にはなりません。父が御自分の名にかけて、その愛に報いて下さいます。だからこの道に招かれたのです。そこまで愛されているのです。