13/8/11朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙4章29-30節、イザヤ書6章1-8節
「病んだ言葉を捨てよう」
イエス様は弟子たちにこう言われたことがあります。悪い実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木はない。木はそれぞれその結ぶ実によってわかる。そうおっしゃって最後にこうまとめられました。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。悪い言葉が出るのは何故か。心が悪いからだとおっしゃった。無論そう言って人を追い込むのではなく、私たちの心にこそ問題があるのだと、向き合うべき問題の所在を問われたのです。今朝の御言葉も、例えばキリスト者に相応しくない悪い言葉リストと、キリスト者に相応しい良い言葉リストを作ったら、それですむような問題でないのは、おわかりのことだと思います。
悪い木、悪い実と、そこでイエス様が「悪い」と言われた言葉が、いま読みましたところで同様に「悪い言葉」と訳されています。直訳は、腐った言葉です。腐った言葉を一切口にしてはならない。あるいはこうです。枝から腐ってもげ落ちる言葉を、あなたがたの口からボタッと、もげ落とさせたり、プッと吐き出させてはならない。腐った実を人の口や耳に放り込むイメージを御言葉は用います。いじめにあって、海岸に打ち上げられていた腐った魚を食べさせられた少年を知っていますが、私たちが腐った言葉を口にするのは、それと同じだと言うのです。
そしてイエス様がおっしゃるには、それはその言葉が出てくる、心が腐っているからだ。腐った木から腐った実がもげ落ちるのだ。そう聞くと私はジメジメしたところで半ば腐っている木を想像するのですけど、陰湿な言葉など確かに腐っているというイメージがあります。陰湿な心の態度を、日本語でも腐るとか、ふて腐れると言うのです。ふて腐れて出てくる言葉は腐っている。よくわかることではないかと思います。
その罪に腐り、罪に病む私たちの心を癒し、心の底から新しく新鮮でフレッシュな実を結ぶ心へと新たにするため、イエス様が来て下さり、私たちと御自身を一つに結んで下さった。そのことをまた木のイメージでこうおっしゃいました。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。そうすればあなたがたは豊かな実を結ぶと。ヨハネによる福音書の言葉ですけど、そこでイエス様が、わたしにつながっていなさい、とおっしゃったことを、具体的に言い換えたのが22節以下の御言葉です。何度もここに帰りますが、改めて読みます「…」。これが、21節の言葉で言う、キリストに結ばれて教えられてきた救いの真理だからです。
古い人は滅びに向かっている。これも別の単語ですが、腐って朽ちて腐敗に向かっていく古い人という言葉が用いられます。木で言うなら、古い木。これが腐った木であり、腐った心、その腐った心の腐敗を保つ腐った考え方と腐った態度、腐った生き方が身についてしまった、罪の腐敗の生活パターンです。キリストは別にいらんしと、神様から離れて生きる罪のパターンです。その腐った木は、しかしキリストに結ばれたあなたにとって、もう古くなった木、本当のあなたではない、過ぎ去るべき古い木だから、真実のあなた、あなたの真理はそこにはないから、その腐った木、腐った心は脱ぎ捨てなさい。これはキリストに結ばれ繋がっている私ではありませんと脱ぎ捨てて、キリストの心に着替えるのです。私はキリストにつながって、キリストの赦しの言葉と恵みを受けて、私もまた、キリストの赦しの言葉、恵みの言葉を語る木の枝になります。私はキリスト者、キリストに結ばれた者です!と、祈って新しく立ち上がれる。それが実生活に及ぶキリストの救いの真理です。
そこで身に着ける、新しい言葉、キリストの言葉を言い直したのが、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げる」ための言葉です。キリストの言葉って、そうでしょう。恵みの言葉以外にキリストが一言でも語られた言葉があるでしょうか。裁きの言葉であってなお、その裁きをご自分で受ける覚悟をもって語られなかった裁きの言葉が、たった一言でもあったでしょうか。赦す態度での裁きの言葉と、私たちがよくやる裁く態度での裁きの言葉は別ものです。もし、いや私は赦しの態度で裁きを語っているのだと自分に言い聞かせながら、後はあなた次第だ、私はもう正しいことを語ったのだからと、その人の自己責任にして放置するなら、それが本当に十字架で死なれたキリストの態度であるのかどうか、その人の重荷を背負う態度がそこにあるかどうか、吟味する必要があるでしょう。恥を打ち明けますが、二十代半ば、神学校に行く少し前、ある教会の青年会で聖書の話をしておって、幸生さんの話は私の心にナイフのように刺さってくるよと言われたことがあります。私はそれを聖書の言葉は罪を切り裂く霊の剣だからと勝手に受け取って喜んでおったのですが、それから何年もたって、ふと気付いたのです。私はその人の罪を裁いたままで立ち去ったのではないか。自分の罪を示されたあの青年は、いま教会につながっているだろうかと。仮に聖書を用いても罪を暴くだけの正しい言葉は間違っています。態度が間違っているからです。そもそも三位一体の神様のお気持ちを汲み取っていません。キリストの憐れみのもとにおらんまま語る言葉は、キリスト抜きの裁きになり得る。あるいはキリストのもとに行きなさい、悔い改めよと言うだけで、悔い改める生活がどのようであるか、キリストが共にいて下さる歩みの香りがどんなであるか、キリストがそこで証しされないままで、キリストという言葉だけが語られるなら、教会が、もしそういう正しい集団になってしまって、そういう正しい言葉ばかり語っていたなら、そこには腐敗臭が漂っているに違いないのです。
無論その反対に、罪を犯すのは仕方ないという態度が蔓延し、だって他の人もやりゆうし、直そうとしてきたけど直らんしという態度もまた腐っています。その態度が言葉として口に出ようと出まいとです。
どちらの態度も、自己責任だと言えます。どういう言葉が腐った言葉かを今説き明かしているのですけど、自己責任の言葉は腐っています。悪いのはあなたの責任だと言う、正しいだけの言葉も、逆に、それぐらいいいじゃないかと罪の責任を曖昧にする言葉も。一方は責任を相手に押し付けることで自分は逃げる。もう一方は、責任そのものを曖昧にして責任から逃げる。どちらも相手の重荷を背負うことから逃げる態度です。自分はその人の連帯責任は負わんという態度です。それはキリストの十字架の態度ではないから、キリストが、わたしに従いなさいと招かれた召しに相応しい態度ではないから、どちらも無責任で腐っています。
無責任な言葉が人を腐らせ、人間関係を壊すとも言えるでしょうか。無責任な言葉が31節では無慈悲な言葉になったり、また下の段3節以下では、みだらで下品な言葉にもなります。あらゆる無責任な言葉が人を傷つけ、下品な言葉で、人が不愉快な思いになる時に、これっぱあえいろうという無責任な態度が、人を教会から離れさせることもあります。幸い教会に留まっても、そんなのは当たり前だという態度なら、やはり無責任であり、それが御言葉の語る通り、聖霊様を悲しませるのです。
いきなり聖霊様が出てくるようかもしれませんが、もう既にこの4章また4章以下全体が、この一言に集約されるとさえ言い得る御言葉が、既に3節で語られておりました。「平和の絆で結ばれて、霊による一致、聖霊様による一致を保つように努めなさい。」聖霊様が私たちをキリストに結び、キリストの体に結び入れ、神の家族とさえして下さった。そのキリストと一つであること、またキリストと結ばれた兄弟姉妹も同様に一つにキリストに結ばれて一つであること。これを聖霊様による一致と呼びますが、これを熱心に保てと言われているのであれば、この一致を見えなくさせるような一切の言動は無責任であり、聖霊様を悲しませると言うのです。私たちをキリストにギュッと結びつけ、たとえ私たちがその救いの絆が見えなくなって、もう父の子と呼ばれる資格はないのではないかと思う時にも、聖霊様が、わたしが保証する、あなたはあなたのために十字架で死なれたイエス・キリストのものである!わたしがあなたを主と結んでいる、わたしが保証だ!と言って下さる。父にも保証してくださる。この者はキリストに赦されていますと。そこまで聖霊様が私たちのために尽くされて、言わば、キリストが十字架で苦しまれることに全てをかけられたように、聖霊様が私たちをキリストと一つに結びつけ、キリストの体、教会の一致の帯となることに全てをかけておられる。その一致を、無責任にも軽んじて、霊による一致を保つことを軽んじる一切の腐った言葉と態度とは、聖霊様を悲しませる。あなたがたの救いに全てをかけるわたしたちの思いが、どうしたらあなたにわかるのかと、悲しまれると言うのです。
ならばこそ、私たちが腐った心を脱ぎ捨てられるように、主は私たちのもとに来られたのです。そのキリストの十字架のもとへと急ぐのです。そこでしか腐った心を脱げんからです。キリストの赦しの御言葉が語られる十字架のもと、そこが私たちの心の脱衣所です。そしてその赦しの言葉、恵みの言葉こそ、私たちが新しく身に着けて語り出す、恵みの言葉、その人を造り上げられる言葉です。
造り上げるという言葉は、もう何度も出てきた、キリストの体を建て上げる、教会をキリストの体として建て上げるという言葉です。ここで語られてきたのは、単なる心のモラルではない。キリストの体形成を、教会形成をどうしたらよいのか、どんな言葉を語ったら、教会が建て上げられるかを語るのです。そしてその恵みの言葉、教会を建て上げていく言葉とは、私はキリストのもとにあなたと一緒に立ちたいという言葉です。あなたと私がこの教会には必要ですという言葉です。アーメン、その通りだと思うけど、その言葉は少し恥ずかしくて日毎には語れないと思うなら、別の言葉を、同じ態度で語ったらよいのです。キリストの憐れみのもとに立って、キリストの憐れみがなかったら、私たちは今日を生きていくことができないという態度で、キリストの召しに相応しい謙遜と柔和を身に着けて、キリストの態度を身に着けて語る言葉は、人をキリストの体の肢として相応しく建て上げていきます。洗礼を受けておられない方に向かっても無論そうです。その人をキリストは招いておられます。私たちの言葉が、そのキリストの招きの言葉になるのです。