13/4/21朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章13節、創世記1章26-27節 「ここに将来の私がいた」

13/4/21朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章13節、創世記1章26-27節

「ここに将来の私がいた」

 

今日は清和学園の生徒さんたちがいつもより多くいらっしゃって共に礼拝を捧げられること嬉しく思います。って原稿に書いて、おらんかったら寂しいんですけど(笑)、説教のタイトルにしましたように、教会につながったら、将来の私を発見するがやって、ご一緒に聖書の御言葉に聴けたら嬉しいです。将来の私が、ここにいる。言い換えれば、本当の自分らしさって、あ、こういうことなのかとわかって、その目標に向かって前進していけるとも言えるでしょう。そういう意味では説教題を、ここに本当の自分らしさがあったにしても良かったと思います。

自分らしさのことを個性とも言います。わかっているようでわかりにくい言葉です。個というのは個人、あるいは個の体と書いて、個体という言葉もあります。性格の個人的特徴だけを個性というのではなくて、顔や背の高さや手の指の長さなど、一人一人違いがある。それが個性。また自分らしさです。何で違うか。生物学的に言えば、一人一人、違う遺伝子DNAプログラムが一人一人の体に書き込まれていますから、当然違う人になる。そして、です。一卵性双生児の双子であっても、まるでロボット、あるいはお金みたいに、皆、判でガッチャンガッチャンって押したように同じ単純なデザインではありません。生きていますから、お腹の中から一人一人への命が与えられていますから、それをロボットみたいに皆同じだなんて言うのは、乱暴を超えて、神様への冒瀆です。神様は一人一人に、違う命を与えておられます。無論、価値は等しい。でもだからって、お金みたいに扱われたりしない。もっとわかりやすく言えば、私たちは換えがきかない。お金はヨレヨレは嫌と思えばピン札に換えられます。しかし神様がお造りになられた人間は、決して換えがききません。こいつ使えんから、別の人にっていう言い方は、神様に唾を吐くのと同じです。使えんとか言っちゃいけない。紙切れじゃないんですから。命の価値は、消費価値や利用価値じゃない。じゃあ、どんな価値なのか。一言で言えば、愛し愛される価値。それが、すべての命に神様から与えられている目的であり価値です。神は愛なり。すぐ下の岩に刻まれた聖書の御言葉です。神様に愛され、神様を愛し、その神様に命を与えられたすべての人を愛して生きる。私たちは、その神様の形、愛の形に造られている。神は愛です。私たちも、だから愛に生きます。そうやって私たちの命が愛に輝くとき、それを聖書は神の栄光と呼ぶのです。もう、一気に言いましたけど、それが私たち皆の命です。

そして、その命には、個性がある。一人一人違う。それを御言葉は、体と同じだと言います。指には指の個性があります。足の指と手の指とまた違います。小指と親指も違います。指だからって、一括りにできんとこもある。親指なんかと一緒にしないで、私、鼻ほじれるのよなんてことを小指は思っているかもしれない。あるいはそれがコンプレックスになって、何で隣の薬指は指輪なんかはめてもらって、ずるい、とか。で、もっと細かく言えば、小指だって関節で分かれる。おいおい、指先だけが指じゃないろう。根元で指先を支えゆう俺があっての指先じゃいかと思ってるかもしれない。でも、そうやって互いに自分の個性ばかり気にせず、じゃあ何のために、何の目的を与えられて、私たちは、この体の部分部分として生まれてきたのか、どんな命を生きればよいのかと考えるとき、御言葉は、私たちは皆!皆で一つの体となって、成熟した人間になるんだと語るのです。皆!そりゃそうです。指先だけ成長して太い小指って、そりゃおかしい。足の小指が親指より太かったら、靴、右左逆さに履かないかんなる。だから皆で成熟し、成長するんだと神様はおっしゃる。あなたに与えた個性はあるけど、それは体全体、皆のことを考えて、じゃあ、あなたにはこれって与えたものだからと。

ラグビーの精神で、あるいは憲法、マグナカルタって言ってよい程の言葉で、One For All、All For One。一人は全員のために。全員は一人のためにという言葉があります。でも、あ、そうですか、じゃあでそうなれるわけじゃない。何でお前ばっかりボール持ってとか、最初はそう思うのが、皆で一緒に走るなかで、走って走って、怪我して、泣いて、またまた走って、一緒に走って、皆で走っていると、ボールがつながるようになってくる。あ、俺ら一つやって瞬間が来る。体も同じ、教会も同じです。だから御言葉も「ついには」って言います。最初っからは、できんがです。でもできる。必ず、俺ら一つや!私たち一つだ!って、もう嬉しゅうてたまらん、涙が止まらんなる日が来る。ついには、必ずやってくる。信じて、皆で走って下さい。無論、走るというのは、比喩です。愛して生きることの比喩です。走るよりしんどいかもしれない。しかもラグビーと一緒で、一人で走るんじゃない。愛は尚更、一人では愛せない。神様を愛することもです。だってその神様が、あなたは体の部分だとおっしゃる。しかも皆!大切な部分だと。一人でも欠けると、体が欠けてしまうからです。

だから、誰かと愛でつながっているところで、私たちは本当の自分らしさをも発見するのです。本当の自分らしさって、要するに、他の人との違いを、あ、これが私かと、受け入れることです。必ず人とは違う個性を、これが私かと受け入れる。納得するとも言えるでしょうか。でも自分ばかり見ていると、って言っても、実際は人と見比べるわけですから、意識の問題ですね。自分のことばかり考えていると納得できない。嫌だと思うことがある。でもそれが体全体に向けて目が開けて、あ、私が違っているのには目的があるがや。この人や、あの人のためであり、体全体のためながやと、自分の殻がピキッと割れて、光が差し込んできて、殻から、カラダ全体が見えてくるとき、自分に納得するんです。これで良いんだと思える。むしろ、この私本来の私として、この体全体の中での私として、One For All、All For Oneの私として、もっと皆のために生きよう、皆を愛して一緒に生きていこうって、神様の大きな命のデザインの中で、自由に息が出来るようになる。無理な自分らしさから自由になる。無理に違わなくてもよくなって、同じとこが見えてくる。しかも、あ、こういうところが同じなのか。あ、こういうところこそ、同じじゃないといかんがやってところが見えてきます。体ですから、そりゃ部分部分違うんですけど、その私たちを流れる血は同じでしょう。右半身A型で左はBってAB型の人はいません。体でも共通するところはある。むしろないといかん。あるから、そこを目指す時、One For All、All For Oneで、皆が成熟した体に成長していく。

そこが今日の御言葉の第2のポイントです。しかも一番の急所です。これはまた来週も続けて説き明かしますので、簡単にお話しますけど、簡単だけれども、一番大切なところです。聖書の御言葉が、私たちは皆一つだと語る時、じゃあどの共通点を目指すのか。具体的には、どんなゴールを目指したらよいのか。それが「私たちは皆」、の後に語られます「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」です。つまり人となられた三位一体の御子、イエス・キリストの信仰と知識が一体となるよう、そこをゴールにして皆で走るとき、あ、私たち一つだ!って体全体として成熟し、キリストのようになるまで成長するのです。

わかりやすく言うと、こういうことです。人は皆、神の形に造られたのです。あなたも私も皆、その命の深い所に、神様の形が刻まれています。愛の形が刻まれている。でもそれを知らんのです。でもその形があるから、そりゃ愛は必要だって思うし、ないと命が命でなくなってしまう。人を大切にしない時、その形が傷ついて、命も傷ついて、本来の私からドンドン遠のいて、悲しくなって自暴自棄になったり、でもそれは私たちが神様の形に生まれてきたのに、その愛の形に生きないところで自分も人も神様も傷つけてしまう。それが聖書の語る罪です。神様の形ゆえに大切な命を、お金みたいに消費したり、利用したりして、大切にされずに傷ついて。その罪から、私たちを救いだすことを神様は決意されたのです。罪で崩れて壊されて、ガタガタになっていた神様の形を、完全な神の形として再び造り直され、しかも神様ご自身が人となられることで、神の形の人としてお生まれ下さった。それが神の子と呼ばれるイエス・キリスト、人となられた神様です。そして私たちを招いて下さった。わたしのもとに来なさい。わたしが将来のあなただ。あなたが、あなた本来の形、神の形に回復されるために、わたしはあなたの救いとしてきたと、ただ私たちの罪を赦すだけでなく、壊れた神の形を直し、回復するために来て下さったのが、神の子イエス様なのです。

だから、です。ここが御言葉の急所です。そのイエス様を信じる時、またもや自分勝手な救いのイメージ、キリストの形を造ってしまって、自分勝手に信じても、また本来の私として生きられんなる。それだと悲し過ぎるでしょう。神の子の信仰と知識はセットです。これが私の生きる目標か、私も神様の子供として、神の形に生きられるって、そうか、こうやって生きればよいのかと、キリストを知るとわかるのです。そこを皆で目指すのです。個性は一人一人違いますけど、目指すところは皆同じ形。キリストの愛の形です。

今は清和を寿退社って言うか、会社じゃないから寿退学?それも響きが悪いですけど、前に清和の先生をされていた方が、マラソンの補習というのでしょうか、生徒に付き合って放課後ずっと走ってるんですね。その先生の顔を今でも覚えています。こんな優しい顔を人はできるのかという顔で、べそをかいている生徒を慰めて、ほら、先生も一緒に走るきって、生徒に寄り添って走っておられた。私は、その人にイエス様のお顔を見たような気がしました。いつもそんな顔じゃないんです。怖い顔の時もあります。でも、あ、あれが神の子の知識、イエス様を知っている顔だと心に焼きつきました。私たち、そうやって生きていけるんです。イエス様は、こうやって私たちを愛して一緒に走って下さっているんだっていうイエス様の優しさで、イエス様の悲しみで、イエス様の愛で、その愛の形に、皆で一緒に回復されながら一緒に走って、キリストの体として、皆で成熟するのです。キリストみたいになれるのです。皆で。皆が、この愛と救いに向かって、神様に招かれているのです。