12/9/16朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章19-21節、詩編84篇 「成長にはあなたが必要」

12/9/16朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章19-21節、詩編84篇

「成長にはあなたが必要」

 

結婚準備会をするとき、ある本を用いています。その本に結婚の秘訣というのが書いてあって、こうある。夫婦が夫婦でいること。なんだと思うかもしれないけれどと著者は続けます。例えば夫に夫でいてほしいとき夫が会社員でい続けたり、妻が妻でなく母でい続けると、夫婦なのに夫婦でなくなる。最初の誓いから離れずに、夫婦が夫婦でいること。それが秘訣だと。

同じことは家族に対しても言えるでしょう。家族が家族でいること。親は子供の支配人にならない。子は親にサービスを求める宿泊客にならない。互いに人格を尊重し合うのは、家族関係だけに限りませんけど、殊更にそれが求められるのは家族です。そしてそのように人格を尊重するのは、え、社会でも当たり前でしょ?と身につく場は、家族です。

それが現代の日本では壊れてしまったと、ある社会学者は言います。家は古来、外の暴力や圧力から身を守るため逃げ込んで休むことのできる砦、あるいは聖域であって、そこに例えば会社の能力主義、競争主義の論理を侵入させて家族を比較することはあってはならない。そして、こう言います。本からの引用です。外の経済化された考え方や弱肉強食の競争倫理とは違った考え方でなければ、幼児やお年寄り、病人の保護はなされないでしょう。家の中での仕事の違いで、幼い子どもは働きが悪いからといって、食べ物を平等に分配しないなどということはないでしょう。お年寄りが生産に関与できなくなっても排除せず、今までの労力に報いるべく世話をするのが家の論理です。その通りだと思います。今日の御言葉で、神の家族とさえ呼んで頂いている私たちにおいては、このことは自然なことではないかと思います。それが家族の当然だと。御言葉は、家族・家・神殿と、複数のイメージを重ねながら、私たちが神の家族として歩むための道を、鮮やかに描き出していきます。

家には、この教会堂もそうですけれど、必ず土台があります。家族の人生が拠って立つ土台。拠り所、根拠とも言えるでしょう。神の家族としての態度、生き方、考え方の根拠、土台があるのです。世間の言葉や常識に取って代わられてはならない土台の上でこそ、家族の生活は安心して成り立ちます。戦争体験者でなくても、戦争を学んでわかるのは、世間が如何に流され易いか。あるいは如何に押し付けられた土台の上に乗っけられてしまい易いかということでしょう。洋の東西を問わず民族主義問題になると感情に容易に流されてしまうのは、何なのでしょう。私たちの人格というのは、そんなすぐ流されてしまうほど軽くは造られてなかったはずだと、悲しくなります。人の命、あるいは人が人として互いの人格を尊重して生きていくというのが、そんな簡単に流されてしまうのは、真実なる土台の上に、自らを立て上げてないからではないかと、今日の御言葉から問われているようにも思うのです。

使徒と預言者が土台であるというのは、少し説明を要するでしょう。どちらも神様の御言葉を人々に伝える働きを託された人々です。特に、キリストの救いの知らせ、福音をあらゆる人々に伝えてきました。使徒と預言者というのは、ユダヤ的言い方で聖書と言う代わりに、モーセと預言者と言うように、私たちの土台である御言葉の言い換えです。この救いの言葉を土台とするとき、私たちの生活は、そんな簡単には流されない。あるいは流されても、悔い改めることができるのです。ごめんなさいと言える。家族にも、また父なる神様にも。そして、今度はどうしたら流されないようになるか、御言葉にもっと聴こう、もっと御言葉に生きようと、ますます礼拝に集中する。聖書を読みだす。御言葉の力を知るように成長していく。家族ですから、成長するのです。御言葉は、成長するための土台でもあるのです。キリストの赦しを中心とした救いの言葉、福音を土台として生きるとき、自分が誰であるのかも、教会とは何であるのかも、そして何より神様を、深く知るようになって、成長します。そしたら色々なものに流されなくなってもいくのです。

改めて、私たちの人生の土台、また家族としての人生の土台をどこに置くかを、天の父に告白したいと願います。主の言葉です。人間の言葉ではありません。私の個人的夢とか、個人的思いや、こだわりを、土台とはいたしません。神様から語られた御言葉を土台に、私たちはこの家を建てあげていきます。家族を築いていくのです。そこに確かな祝福が必ず父から与えられます。教会が何故、御言葉、御言葉と言うのかを、改めて私たちのこだわりとするのです。何故か。そこに父のこだわりがあるからです。仮に、私の父親が熱烈な阪神ファンやとして、我が子が阪神ファンやって、どうして祝福されんでしょう。天の父は尚更です。阪神ファンというのではないですが(笑)。父のこだわりに生きるところ、祝福は必ずあります。主の御言葉が、家族の祝福の土台なのです。

その確かな土台の上に、家を築いていく。全員で、です。建物全体が組み合わされて、全体が成長をするからです。想像して頂きたいのですが、ここの梁を見ておってですね、あ、あそこ組み合ってない!という接合点があったら、たぶん、その下の席には座らんばかりか、早う大工呼び、すぐ呼びと言われるでしょう。全体が組み合わされていることを神様が如何に大切にしておられるか、よく伝わってくる御言葉です。

だから、全体が組み合わさって組み合わさって、その全体がこの一点に集中するという部分には、主イエス・キリストがおられます。要石という表現で言われているのは、そのことです。互いに組み合わさった、家全体の要、中心にキリストがいて下さるから、接合部分が歪んでも、互いに修復できるのです。キリストを中心に向き合えるからです。共にキリストの十字架の前に立ち、自分のこだわりを捨てられるからです。だから御言葉はこう言います。キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となりますと。他の御殿にはなりません。誰かの自己主張が通る家にはなりません。この家にボスはおりません。中心には一人の主が、しかも僕となられた十字架の主がおられます。十字架で罪人の身代りに永遠の罰を引き受けられた、赦しと恵みの主イエス・キリストが共におられて、わたしに従って来なさいと優しく、柔和に招かれるのです。それが主の家、聖なる神の家族だからです。聖なるというのは、私たちが罪なく清いからではなく、ま、そうなりたいと願っていますが、うまくいかない、自己主張してしまう、そんな私たちを、キリストが受け止めて下さったからです。だから、わたしに従いなさい、あなたと一緒に、わたしもその建物の中心にいて、あなたがた全体を支えつつ、一緒に神の家を建て上げていくから、それが父の愛し求めておられる、聖なる神の家族だからと、私たち全員を招かれるからです。この家には、あなたが必要だと、父がキリストにおいて私たち全員を組み入れて、組み合わせて下さっているのです。

この家で家族として共に生きるのに、年は関係ありません。民族も、能力も、あれができるかできんかも一切関係ありません。神様が十字架のもとに招いておられる。キリストにおいて組み合わせて下さる。それだけです。障害も関係ありません。できるかできんかではありません。家族に組み合わされているかいないかだけです。私たちが皆、いつか、キリストの前に立つときに、私はこんなに頑張ってきましたと自己主張する人がおるのでしょうか。逆に何もしなかったと開き直る人もおらんでしょう。その時、神様の前に立ち、最初に神様の前に呼ばれて、よくやったと言ってもらえる人々は、私は、重い障害をもって、家族に組み入れられた兄弟姉妹たちではないかと思います。そしてそこには人間の論理ではなく、神様の論理があることを、この家の論理は、聖なる恵みと憐れみであることがその時には、涙が出るほどよくわかって、嬉しくなるのだと思うのです。またその時に、それ故に自分を誇る人も誰一人なく、皆が、私たちをそのように救ってくださったキリストに感謝を捧げ、この愛と恵みと赦しによる救いの中に、私たちを迎え入れて下さった神様を、皆で誇るのだと思います。こんな救いを、永遠の喜びを本当にありがとうございます、栄光の父よ、と礼拝を捧げる中で、父の御声が聴こえてくる。これが、わたしの求めた、わたしの家族だと。その日に向けての今日一日です。その礼拝に向けての、この礼拝です。その日栄光に包まれる神の家族は、もうここに、キリストの恵みの下に、既に始まっているのです。