11/7/3朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書19:1-10、詩編106編1-5節
「この人も救われる」
思いもかけず名前を呼ばれることがあります。例えば、今がそうかもしれません。突然名前を呼ばれたら、びっくりされるでしょうし、周りの人は、え?あ、寝よったが?って思われるでしょうか。授業ではないので、そういう呼び方はしませんが、私は二度、授業中居眠りをしよって名前を呼ばれたことがあります。頭では、まずい、はっきり返事をせないかんと思っていても、体が起きてないので、はい…とやたら小さい声で返事をして、うんと恥ずかしかった覚えがあります。けれど、名前を呼ぶほうからしたら、うんとその人が気になるのです。名前を呼びたくなるのです。米国ではAre you with me? 私と一緒にいますか?と尋ねられることもあります。私と一緒にいてほしいのです。神様だって同じお気持ちです。ご自分の前から失われて欲しくないのです。
ザアカイは当時イスラエルを支配するローマ帝国の言わば手先として税金を同胞ユダヤ人から取り立てる徴税人として、皆から嫌われていたばかりでなく、言わば自分の信仰を売り、神を売った罪深い人間だと、徴税人は会堂に礼拝出席することを禁じられてすらおったようです。皆ザアカイは失われておったと、おそらくザアカイ自身ですら、疑ってなかったのではないかと思います。ザアカイも、ひょっとするとローマに支配されるイスラエルの神なんてと思っておったかもしれません。神様よりも今の生活の豊かさとかのほうに、もっと関心がある現代人と案外近い感覚でしょうか。けれど未練もあるのです。神様を完全否定しているわけでもない。エリコの町に、イエス様がやってこられたという話を聞いて、見たいと思い立つのです。単に奇跡を行うというだけでなく、自分たちのような徴税人と食事を共にしたり、弟子の中には元徴税人だった者までいると、聞いておったんじゃないかと思います。皆から嫌われる私たちのような者と友になったり、弟子にまでするとは、一体どんなお方かと、本当に救い主であるのなら、一体どんな救い主かと、関心がある。関心。信仰とまでは、いかんかったのではないかと思います。群集をかき分けて主の前にひれ伏して、というのではなく、先週の盲人のように、私を憐れんで下さいと叫ぶのでもない。けれど、心で個人的関心を持っているだけというのでもない。どれだけの関心かと言うと、イエス様を見に行ったのだけど、ん?あれ?ちょっと、イエス様が見えん、全然わからんという状況で、まるで下手な説教を聞かされたような状況でしょうか。じゃあと木に登ってまでもイエス様を見たい。案外、イエス様への関心は強い。本当は、自分でも気づかんかったほどだったかもしれんくらいに強かった。イエス様から、今日あなたの家に泊まるき、すぐに降りてきてと言われたら、喜んですぐに降りて来るぐらいですから、本当は、イエス様のもとに行きたかったのです。あるいは呼ばれて初めて私はこんなにも神様を求めていたのかと、いや、神様が私を求めて下さっておったのかと、その愛が、こんなに嬉しい愛だったなんてと、自分でも初めて気づいたのかも知れません。そういうものじゃないかと思います。本当は、この愛に皆会いたいのです。神様が私たちを求め続けておられるからです。ましてやイエス様を無視できないで木の上にさえよじ登ったザアカイを、神様は決して通り過ぎられることはありません。それは人からあれこれ思われようとも、教会に行くようなものかもしれません。それでも礼拝に行くのです。その人がイエス様から呼ばれてないはずがあるでしょうか。
でも信仰があるかもわからんしと、思われるかもしれません。けど、信仰があろうとなかろうと、神様との愛の交わりから失われておったら呼ばれてないはずがないのが、キリストをくださった神様の愛です。ないはずがないって、ややこしいですが、つまり絶対にあるのが神様の愛です。信仰は、この愛に名前を呼ばれていることを受け入れ、ハイってイエス様の言われる通りにすることです。まずはイエス様の前に行くことです。教会で言えば、イエス様の前にひざまずいて、洗礼を受ける。そしたらもう、単なる個人的関心ではなくなります。イエス様が私の名前を呼ばれる声に、お応えして歩む人生が始まります。主と共に生きる人生、神様に愛されて永遠に生きる人生、それが十字架の赦しを全身で受けて、恵みによって救われる人生です。
その愛と救いを、キリストは胸一杯に満たされて、すべてのザアカイに言われます。ザアカイ、急いでわたしのもとに来なさい。今日この日に、わたしはあなたの人生に宿をとらなければならない。新共同訳は、ぜひ泊まりたいと訳しましたが、直訳は、泊まらなければならない、です。神様の決意が伺える言葉とも言えます。それはまた呼びかけられている私たちに対して、決意を求めておられる言葉とも言えるのです。わたしはあなたの人生に、今日、共にいなければならない。そうではないか。いつ来るかわからない明日ではなくて、今日、あなたの家に救いは来なくてはならないのだと、キリストは私たちに、今日、この日、名前を呼びかけてくださる。そしてザアカイは、急いでと言われる主の言葉に、そのまま急いで従って、御言葉にアーメンと従って、イエス様をお迎えしたのです。それがザアカイの信仰です。もう個人的関心ではありません。名前を呼ばれて返事をしたら、もはや個人的ではありません。主と結ばれてしまっているのです。ザアカイは主の名を呼んだわけではない。あの盲人のように、私を憐れんで下さいと叫び続けたわけでもない。その私の名前をキリストが、呼んで下さり、捜し求めておられるのです。神様に返事をする者を捜しておられる。見えているのに、失われた者を、そこにいるのに、主の前におらん者を、捜して永遠に救うため神様は救い主として来て下さって、今日この家に、救いが実現するように、愛がこの家に満ちるようにと求めてくださっているのです。
人は色々と言うかもしれません。私に関わってくれもせんのに無責任なことばかり言うのです。でも神様は、その私たちの罪の責任を一身に引き受けられて、十字架で責任を取ってくださいました。わたしが死ぬからあなたは生きよと、永遠の赦しと、神様の家に生きる永遠の命を、私たちの前に差し出して、この救いがあなたを訪れるように、今日、あなたの家に、わたしは宿らなければならないと言ってくださる。なら、人の言葉など、もういいのです。主が、ザアカイの人生に来られたら、人が一体何と言おうと、必ずザアカイは救われるのです。具体的な人生の変革すら起こります。罪深い人間だと言われても、あいつはダメだとさじを投げられ、人々からは失われておっても、神様が捜して下さり、神様がその腕に抱きしめてくださり、あなたはわたしの愛する子だと、神様が十字架で受け止めてくださったから、だから、ザアカイは立ち上がり、新しい人生を歩み始める。主よ、私は財産の半分を貧しい人に分け与え、不正な取立てをしておった人には四倍にして返します。前の頁のお金持ちの議員には、全財産を貧しい人にとイエス様は仰ったのに、ザアカイは半分を貧しい人々と分け合いますと言う。それでも構わないのです。全部か半分かが問題ではない。ザアカイは、イエス様を、主よと呼び、主の前に、生き直すことを決意している。キリストを、私の主よと呼んで生きるか否か。キリストを、私の主としてお迎えするとき、救いがその家に訪れます。個人的関心だけに留まらず、内面的な救いが問題ではなく、永遠に、その人生全部が救われる。キリストが人生全体の主となって、罪と裁きとから救って下さる。
そのために神様は今日も私たちの名を呼んでおられます。失われた者にならないで、わたしのもとに来なさいと、主が私たちをお呼びです。