11/6/26朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:35-43、エゼキエル書34章23-24節 「信じざるを得ぬ恵み」

11/6/26朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:35-43、エゼキエル書34章23-24節

「信じざるを得ぬ恵み」

 

群衆の中を掻き分けて連れてこられたこの人を、手引きする人の足がついに立ち止まり、目の前でキリストの声がする「わたしがあなたに何をすることをあなたは望むか。」この人はどんな思いであったでしょう。いや、イエス様こそ、この人が前に立ったとき、どんなお気持ちであられたろうかと、私は想像するのです。

私たちも、必死に捜している捜し物が見つかったとき、そりゃあもうすごく嬉しいのです。家でしょっちゅう捜すのは眼鏡と携帯電話です。眼鏡は返事をしてくれませんが、携帯は返事をしてくれます。ただし、私は常時、音のせんマナーモードにしていますので、皆、静かにして、ブルブルっていう音を捜してよと、他の電話から自分のにかけ、どこ?聞こえる?声が聞こえん?見つけて~って叫びが聞こえん?って必死で耳をそばだてて捜します。見つけたらホッとします。だって、あるはずなのにないのです。おるはずなのにおらんのです。心がざわついて不安で捜す。子供の頃、家に戻ったら飼っていた小犬がおらん。黒い小犬でブラッキーと私が名づけました。当時8歳ばあで、黒いきブラッキーと名づけるらあて、中々渋いネーミングセンスをしちゅうと自画自賛するのですけど、母が、クロ、クロと呼んでご飯をあげるので、クロになってしまった小犬がおらん。家の田んぼから畑から近所一帯、泣きもってクロークローって捜しまわりました。ひょっとそういう話をすると、昔から私を知っている人は、おお、だから野口は今になっても苦労を求めて牧師にまでなって、ご苦労なことやと、まあ思う人はおらんでしょうが、別に苦労するのを求めているわけではありません。神様が必死で捜し求めておられる人々を、私も一緒に捜しゆうのです。牧師だけが捜しゆうのでは決してないはずです。教会全体で、主が捜しておられる人々を捜さんわけにはいきません。神様の憐れみを叫び求める全ての人を、主が捜し求めておられるからです。

この捜すという主題は次のザーカイの話にもつながるのですが、この18章全体で一本に繋がっている主題です。少しお勉強のようになりますが、右頁上の真ん中8節で、キリストはご自分が再び世の終りに来られる時に、果たして地上に信仰を見出すだろうかと、信仰を求めておられます。その信仰は下の13節で、神様、罪人の私を憐れんでくださいと、主の憐れみを信じ求める信仰として描かれます。16節では、憐れみなしには生きてさえいけない乳飲み子たち、自分で自分を救えない幼子たちを腕に抱き、神の国はこのような人々のものであると主は言われます。それに反して、次に登場した金持ちの議員は、天国に行くため私は何をすれば良いかと主に尋ね、主は、憐れみ深いわたしに従いなさいと招くのですが、この人は、そればっかりは勘弁と、救い主に従おうとせん。中々見つからんのです。主の憐れみを、求め続けてやまない人が、主の憐れみを信じ続けてやまない人が、おらん。

でもその人が一人、やっとイエス様の前に見つかった。どんな立派な信仰の持ち主で、身なりも軽やか、立ち振る舞いも社会的常識をわきまえて、いかにも信仰者、っていう感じの人でしょうか。むしろ、社会の外の人です。事実、街の中でなく、街を守っている城壁の外の道端で生きざるを得なくなっている、英語で言うところのアウトサイダー。好きで外側にはみ出したわけでは決してないのに、群衆の仲間にも入りたいのに、叫んだら、黙れと叱られる外側の人。でもその人の叫び求めに、主は信仰を見られたのです。

その人が道端に座っていると、群集のざわめき、足音が迫ってくる。目は見えない。ざわめきの先頭が過ぎていく。すみません、何事ですかと何度か尋ねた後で親切な人が一人答えてくれたのか、誰も答えてくれなくて誰かの服をつかんだか。ナザレのイエス様のお通りだ。聞いたことがある。この方こそ救い主ではないかと言っていた。疑う気持ちもないわけじゃあない。けれど私が聞いたイエス様は、憐れみ深いお方であった。この方に私は見つけてもらわなければいけない。その方が、どの方向におられるのかもわからないまま、この人は急いで立ち上がって、ダビデの子、イエス様、私を憐れんでくださいと叫ぶのです。群集の先におるのか後におるのか、方向も何も全然わからん。本当にイエス様が来ゆうかどうかもわからない。けれどもし本当に救い主だったら見つけてもらえる。救い主が私を見つけてくださる。だから、うるさいと叱られようと、黙れと押さえつけられようと、ますます大声で叫ぶのです。何度も何回でも叫び続けてやまんのです。ダビデの子よ、私を憐れんでください。私の羊飼いよ、憐れんでください。どんな顔をしてこの人が叫んだか。思い描いて欲しいのです。そしてその声を聴かれたイエス様のお顔を、どうか仰ぎ見て欲しいのです。どんなお気持ちで主はこの人を群衆の外側に見つけられたか。

彼が叫んだ、ダビデの子という名称は、先に読みましたエゼキエル書に預言されているイスラエルの王、ダビデ王に類する牧者があなたがたに与えられるという預言に基づいた、救い主メシアの呼び名の一つだと言われます。改めて34章20-24節をお読みします。「…」。虐げられているご自分の羊を、主は憐れんで救い出される。その憐れみ深いあなたの羊飼いを、あなたは信じればよい、あなたの救い主を呼べばよいと、主は約束をして下さいました。そのダビデの子なる主を呼ぶのです。ところで子と呼ぶのは、人の子とか、属するという意味でしょうが、歴史的文化の産物でしょう。例えば日本で便所をトイレと呼びますが、英語でトイレは便器ですから、トイレ貸してと尋ねたら、一個しかないき必ず返してと言われます。面白い文化の違いです。神様が人となられる百年ほど前に、救い主メシアをダビデの子と呼ぶ名称が定着したようです。ただ、この名称はもう一つのイメージも持っていて、全戦全勝の猛将であったダビデのように、ダビデの子なる救い主メシアは、武力によって逆らう敵を征圧しイスラエルを神の国としたもうというイメージです。けれど、そういう神の姿を信じ描く人の立ち振る舞いは、往々にして、自分たちとは異なる人を外に出させて、叫ぶ盲人に向かって叱りつけ、力によって自分の意に反する者を黙らせようとする。そういう横暴な力で立ち振る舞ってはおらんでしょうか。その人の信じる神の力も、人を罪と死の滅びから救い出す憐れみの力となり得ているか。憐れみ深く、かつ正義を無にせず、自らを身代りに十字架につけて罪を裁かれる、聖なる憐れみの神様を、その人は果たして信じているのか。やがて人の子がくるときに、果たして地上にそのような信仰が見出されるのか。

目が見えているがばっかりに自分の力をためらわず信じ、永遠の命を受け継ぐために私は何をしたら良いかと、私のすることを問うた金持ちとは異なって、この人は、ただただイエス様に向かってこう叫びます。ダビデの子、私の羊飼いイエス様、私を憐れんでください。私を救われる主よ、私を憐れんでくださいと。この人に、イエス様こそ、こう言われます。「何をして欲しいか。」わたしがする。人にはできないことも、わたしにはできる。人よ、あなたはわたしがそのように、憐れみ深い、あなたの羊飼いだと信じるか。わたしの羊よ、あなたはわたしに、何をして欲しいか。

見えるように、と言ったこの人に、主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。どんな信仰が、でしょうか。この人は、救われるようにとは言っていません。見えるようにと願ったのです。主は、そんな肉体のことでなく、霊的なことを求めよと叱ったでしょうか。決してそうではありません。求める態度をご存知だからです。その態度が信仰だと言ってもよいのです。救い主の憐れみを信じて叫び続けるこの人の態度に、そうだ、わたしはあなたの言うとおり、わたしはあなたを憐れむ神、わたしはあなたを救い出す主だと、主はその信仰を喜んで見い出してくださいます。そのときイエス様がどんなお顔をしておられたか、改めて仰いで頂きたいと願うのです。エリコにまで続いた旅の道、そしてこれから十字架につけられるエルサレムへと続く旅の道中で、日に焼けたお顔をクシャクシャにして、わたしは地上に、この信仰をこそ見出したい、あなたたちの内に見出したいとイエス様は願っておられます。あきらめず祈れと教えられた主が、あきらめず叫び続けたこの人を見つけて、あなたを見つけて本当に嬉しい、見えるようになれ、さあ、見てご覧と、開かれた視界に、真っ先に飛び込んできたのは、きっと、イエス様の笑顔に違いないのです。

そんな救い主のお姿を仰いだ人が、どうして神様を褒め称えながら、イエス様にお従いせんということがあるでしょう。この人は賛美しながらついていきます。先立つイエス様に従って、主の憐れみの人生を行くのです。あるいはこの人も、いつかこう考えることがあったかもしれません。もしも私の目が見えておったら、もしもお金を持っておったら、私はイエス様に従ったろうかと。この人とまるっきり対照的なのが、先に登場したお金持ちの議員でしょう。目も見え、お金も、力もあった。なのにイエス様に従わんかった。なのに、でしょうか。だから、でしょうか。無論、神様はお金という障害を乗り越えることがおできになります。それが次に出てくるザーカイです。お金も力もありました。なのにキリストに従うのです。主が、この人を憐れんでくださったからです。神様に不可能なことはありません。ならば私たちに問われているのは、その神様に対する態度です。お金があるなら、そのお金をどうするか。目が見えるなら、その目で誰を求めるか。何かがあろうと無かろうと、何かを持っていようと持ってなかろうと、私たちは、どのような態度・信仰をもって、イエス・キリストをくださった、憐れみ深い神様に向きあって生きるか。神様は身を乗り出して、私たちを求めておられます。

いつの時代にもおられるこの人、道に座る以外になかったこの人は、社会的にも、肉体的にも、貧しさと悲しみにある人でした。けれど神様はこの人を、捜し求めておられます。主の憐れみを信じてあきらめず、叫び続けたこの人を、主が見出してくださるのです。そして、この人を救われる憐れみ深い主の御名を、私たちは、こぞって賛美するのです。