11/3/6朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:25-35、創世記22章16-18節 「愛の選択は命の選択」

11/3/6朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:25-35、創世記22章16-18節

「愛の選択は命の選択」

 

イエス様は私たちに弟子になって欲しいのです。世界中の人々に弟子になって欲しい。前にも言いましたが、受験の譬えで言えば、神の国への入試というのはイエス様が受けてくださいましたから、入試はなくてイエス様との面接があるだけ。わたしのもとに来ますかと、イエス様に面接で問われて、そのイエス様に、はいと答える。それが洗礼であり、イエス様の弟子になるということでもあります。最近も北朝鮮から亡命を求めてきた人々がおりますが、そのようにイエス様のもとに救いを求めに来た人を門から締め出して、この条件に合格できんと救ってあげんなどと、まさかそういうのではありません。誰でも来なさいと招かれるイエス様です。先の盛大な晩餐の譬えでは、父なる神様から、無理にでも連れてきなさいと言われて、その通りに、多くの人々を父のもとに連れてこられたイエス様が、まるで急に怖い顔になって、そう、来たが、けんどこういう人でないと入れることはできんと厳しい試験官の形相になるというのではありません。

むしろ、そうやってイエス様のもとに来て、洗礼を受けてキリストの弟子となりますと求める者に、そう、それは嬉しい、おめでとう、では弟子としてわたしについてこれから一緒に歩んでいくあなたに、弟子としての心構えを伝授するきねと、そうやって教えている場面として理解すればわかりよいでしょうか。そら私たちとしても教えてもらわないと困ったことになるのです。例えば御言葉を聴いて心打たれて、私も洗礼を受けます、ほら今すぐと、例えば、そういう人が来たとして、慌てて洗礼を授けてしもうて、しばらくして、あの~、洗礼を受けたら教会の一員となって教会に仕えて自分の好きなようにはできんらあて聞いてなかったき、やっぱりなしにしてくださいと言われたら大変なことになるでしょう。亡命はしたいが、あなたの国の法や決まりなど知ったことかという亡命もありえません。辞書で引いたら、亡命の命は戸籍や国籍のことだそうです。身柄とも言えるでしょうか。今までの国籍は亡くして新しい国籍に身を委ねる。この身を、どうぞよろしくお願いいたしますと預けてしまう。イエス様、これからは神の国の国籍に入らせていただきますので、これからの神の国の一員としての生活について、ご指導のほどを、よろしくお願いいたしますと来た一人一人に、そう、あなたはよい選択をした。これがあなたの新しい命だと、神の国の命のあり方を教えている場面がこれだとも言えます。

わたしのもとに来たあなたがたの、命のあり方はこうである。家族や自分自身でさえも、これを一番にしてしまうのは、わたしの弟子としてのあり方ではない。これを憎まないならと直訳で訳されると、まるで、親父が憎いと、憎悪の炎でも燃やさないかんかと思いそうですが、これは聖書によく登場するユダヤの言い回しです。あれかこれか、どっちかを選ぶという表現です。例えばヨセフが結婚相手にマリアを選んだら、ラケルさんへの思いはキッパリ断ち切る。当たり前ですが、ユダヤではそれを、マリアを愛し、ラケルを憎むと言うのです。マリアの気持ちからしたら、わからんこともないかと思います。キッパリ、スパッと断ち切って欲しい。あるいは友情関係が続くとしても、私と他の人との違いは、線の違いをハッキリして欲しいと、そら、誰だって思うでしょう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主なる神様を愛しなさいとも言われます。他とは一線を、しかも絶対的な極太のマジックでキュキュっと、私は神様を一番にします、それは家族と比べても別格なのです、私の人生よりも全然別格なのですという唯一無比の心構えがある。実際に命を問われる場面があって、やっぱり死にたくないと自分の命を選んでしまうことはあるでしょう。ペトロがそうでした。そしてイエス様はそのことを知っていました。しかしだからと言って、やき、別にどうでもえいがちやとは言われんのです。むしろイエス様は、自分を捨てなさい。捨てれんところで、その自分も捨てて、わたしについてきなさいと、私たちを背中に負われて、十字架を負われた。私たちへの罪の赦しの確証のもとに、だからついて来なさいと呼ばれるのです。

今の日本では、あれもこれもそれも、全部欲しい、えいろう、だって欲しいがやも、という優柔不断がまかり通っているようにも思います。そういう時代に住んでおったら、イエス様はそう言われるけんど、結局は赦されるがやろうと甘えが生じやすいかもしれません。が、あれもこれもは通用せんとイエス様は忠告をなさいます。でないと破綻したときに、その人もまた悲惨だからです。あれもこれもの関係は破綻します。

ソロモンがそうでした。この人は賢い人です。塔を建てるときの計算とか、他の国と戦うときの武力の計算とか、うんと考えて、それはもううんと考えて言わば全戦全勝の結果を得たほど、賢い人の代表のような人です。が、この愛の選択だけは、いや、けんど通用するろうと考えて無残に破綻しました。それが人間の考えです。そういう考えではだめなのです。イエス様が、よく考えなさいと言われるのは、人間として損得で考えてとか、うまい抜け道はないろうかとか、そういうズル賢い考えでは決してなくって、神様を相手にして、あなたは自分の考えが通用するか、そのことをよく考えなさいと言われるのです。言わばイエス様の恵みに亡命したということがどういうことか、その亡命先の命のあり方は、じゃあ今までと同じでよいのかどうか、それは相手先を考えたら、神様に向き合えばわかるはずでしょうと、きちんと神様に向き合うことを優しく教えておられるのです。こっちもあっちもは通用せん。あなたは誰を一番に選んだのか、もし神様に平行して、あっちもこっちもと愛と忠誠を揺るがせにするのなら、どっちつかずの愛がどうなるか、その結果は考えたらわかるはずだと、自分を選ぶな、あなたの罪を赦すことを選ばれた、あなたの神様を選びなさいと主は言われます。

子供の頃読んだ漫画を思い出しました。話の前後は忘れましたが、主人公の子供が線路のレールが二本並行に重なっている間の部分に、手を突っ込んで抜けなくなっている。必死で抜こうとしているのだけれどもどうしても抜けない。その親か誰か大人がやってきて手伝っても、手が痛いと泣くだけで、何にも進まない。そのうち向こうから汽車がやってきて、必死になって、どうして抜けんのか、子供の手元を見てみると、二つのレールに挟まれた手がグーになっている。それが抜けるか、パーにせえと言うが聞かん。どうしてか。その手に百円玉を握りしめているからです。それを離せ。いや。死ぬぞ。いやー。

イエス様が相手にしておられたのは大人だったと思います。でもその手元をイエス様が見られたときに、グーになっていた大人はおらんでしょうか。握りしめている何かがあって、神の国と自分の欲と並行して走っている線路の間に手が挟まっていて、抜けない。このこう着状態から抜け出して、自由に生きて、また死ぬために、主は、その手を離して、わたしの恵みをつかみなさいと言われるのです。それが自分の十字架を負って、イエス様の後について行くということの意味です。自分の思いや自分の願いは、十字架につけてしまうのです。イエス様が父の救いの御心に従って私たちの救いとなられたように、私たちもまた自分を捨てて父の御心に従って歩む。そうやってキリストの弟子、神の僕となるときに、神様のお役に立つ者となるからです。私たちが祈り願っている、愛する家族や友人、知人の救いのためにも、神様がどうして用いてくださらんでしょうか。主が、あなたがたは地の塩、世の光だと言われたのは、あなたがたは人々を救いに導くために父に仕える神の僕だ、そうだろうと言われたのです。

それはよくよく私たちの知っての通り、自分の力では無理な話です。自分の力。ここに握りしめている自分の手があるとも、あるいは言えるかも知れません。それでも自分を信じてしまう。私はある時から、聖書でも勧められているように、両手を天に広げて祈るようになりました。教団の教会でやると人がびっくりしますからやりませんけど、米国では皆よくやってましたから自然とそうなったとも言えます。けれど、一つのきっかけは、友人が死にかけたときです。何もできない自分の無力さに、主よ、私は何にも持っていませんけれど、私の命をあげてかまいませんから、どうか彼をお救い下さいと空っぽの両手を天に上げて祈ったのが最初だったと思います。心から、父よ、私は何も持っていません。あなたの恵みをください、あなたの僕を憐れんでください、あなたの御心をなさせてくださいと祈るとき、私にはしっくり来ますので、独りで祈るときは、よく自然に手を上げて祈っています。

私たちの持ち物ではだめなのです。何の役にも立たんのです。この世のことに関してなら、少しは役に立つでしょうけど、救いのために役に立たんなら、それが一体何だというのか。その持ち物がもし高ぶりにすらなるのなら、そんなのを握りしめていて、神様に従うことができんのならば、そう、それはもう捨てたらよいと、イエス様は両手を差し出してくださるのです。あなたは代わりにわたしを得るのだと。

それが今からおこる、聖餐式の意味でもあります。空っぽの両手を差し出して、イエス・キリストを頂くのです。何かと交換なんてできません。私たちの持っているものなんて、何の役にも立ちません。だから、イエス様がご自身を父なる神様の前に差し出して、私たちの赦しとなられ、命となって下さったのです。そのイエス様を私たちはいただいて、そして運んでいくのです。イエス・キリストと一体になって、そのようにキリストの弟子として、神様に用いていただくのです。空っぽの手に今からキリストをいただきます。自由にされた手に与えられるキリストの恵みが、私たちを真実に、自由にします。そして自由な弟子たちが、世界に恵みの味付けをしに、キリストに従って旅立つのです。