11/2/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:1-14、申命記16章11-14節 「無視される人を招く主」

11/2/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:1-14、申命記16章11-14節

「無視される人を招く主」

 

この一連の話をされたイエス様のお顔は、どんな表情をされていたと皆さん思われるでしょうか。これを昔の話だとするならば、そんなのはどうだって良いことかもしれません。けれど今生きておられて、聖霊様によって私たちと共におられるイエス様が、この御言葉によって私たちに語りかけて下さっている以上、やはりそのイエス様の表情も、無視できるものではないだろうと思います。私たちが日々、どんなイエス様のお顔を仰いでいるかとも深く関わりがあるのです。以前ある画家が自分の描くイエスの顔はどれも険しいと言われるが、それはイエスがいつも生きるか死ぬかの厳しい戦いをしていたと思うからキツイ目つきになるのだと言ったコメントを読んで、なるほどと思いつつも違和感を覚えたことがあります。今日の御言葉はどうでしょうか。明らかに人間の罪と対決している場面でもあります。確かに闘っておられる場面です。でも救い主はそこでどういう闘い方をなさったのか。目を吊り上げての戦いであったか。そうではなかったように思うのです。むしろ、そういう目をした人々に囲まれた中で、イエス様は憐れみの勝利を信じて闘われたのではなかったか。私たちに向かって、わたしの弟子になりたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと言われたイエス様の目は、けれど十字架を負う厳しさを映すというよりも、むしろ悲しみを背負ってはなかったかと思うのです。

イエス様を預言する旧約聖書の中でも、おそらく最も有名なキリスト預言の一つ、イザヤ書53章に、こういう御言葉があります。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。口語訳では、悲しみの人で、病を知っていたと訳されます。悲しみの人だった。私の愛する御言葉の一つです。無論、かと言ってイエス様が46時中暗い顔をしていたとは思いませんし、今日の御言葉でも、特に婚宴の席の譬えを話されたとき、ユーモアたっぷりにジェスチュアも交えて、笑顔で語られたろうと私は想像します。明るい方です。希望を分け与えてくれるくらいに。そして、そういう明るさは、悲しみを知っている明るさだと思うのです。こう言っても良いでしょうか。その心には、悲しみの穴が開いていると。心に開く悲しみの穴。少し、このイメージで話を続けますので、お付き合い願いたいと思います。

私たちが言葉を聞くとき、ちょうど耳に穴が開いていて、それで言葉を聞き取れるように、心にも穴が開いているのでなかったら、本当に聞くべき言葉、あるいは声は、聴き取れないのではないかと思うのです。神様が私に与えて下さった出会いを振り返ってみても、私に良き感化を与えてくれた人々は、皆心に穴を持っておられたように思います。穴が開いているというのは、何か欠けていて、完全ではない、不完全な印象もまたあるでしょうか。もし洋服を買ったのに穴が開いていたら、返品して穴が開いてないのに替えてもらうのが当然でしょう。もし胃に穴が開いていたら大変なことです。穴が開くまでいかずとも、胃が弱いと書いて胃弱という言葉もあります。どうせ胃を持つなら、弱くない強い胃を持っているほうが、私も好きなコーヒーが飲めますし、胃がキリキリと痛んで苦しむということもない。同様に言うなら、心に穴が開いているという状態も、痛い痛くないで状態の良し悪しを判断するなら、穴が開いていて、痛み、悲しみがある心というのは、少なくとも快い状態とは言えません。決して快くはないのです。強いか弱いかで言うのなら、穴の開いた心は弱い。痛みがある。ないわけがありません。イエス様は多くの痛みを負い、その心には多くの、あるいは大きな穴が開いていて病を知っておられた。私たちが罪を犯すたび、それを見るたび、心痛められ、ジュッと穴が開く。何故か。愛する者の罪の姿を見て心を痛めるからです。わからん人はおらんでしょう。例えば小さな子供であろうと目が吊り上がるほどに自分の正しさに執着している狂気じみた姿を見たら、痛みを覚える。その愛する口から悪口を聞く。あるいはもっと酷い罪の現場を見る。私たちでさえ、ときに死にたい程の痛みをそこで覚えるのであるならば、神様が一体どうして未だ、この罪に狂い病んだ世界と共に心中しないでいられるのか。それはただひとえに、人となられた神様、イエス・キリストがその私たちの罪を背負われ、私たちを抱きしめ抱え込むようにして、あなたもここで死んだことにしてよいからと、十字架で死んでくださり、そして三日目に、わたしはあなたと共に復活するから、あなたはわたしと新しくやり直してよいと墓から甦られたからに他なりません。それがイエス・キリストの救い、死んで新しくやり直してよい、神の子として永遠に生まれ変われという救いです。

そのイエス様が私たちに求められる生き方とは、じゃあ何か。あなたの心に開いているその穴から、あなたも悲しみの声を聴けるのだから、その声を無視しないで、わたしの弟子として神様の憐れみに生きなさいという生き方です。その声は、しかし、ときに声なき声と表現されるように、いつも耳に聞こえるわけではないでしょう。今日の御言葉でも、悲しみの声が、言葉として記されてはないのです。あるいは特に男性はこういう場合、はっきり口で言わんき悪い等と自己弁護するかもしれません。が、だから神様も何もおっしゃってない、とは言えんでしょう。むしろイエス様は別のところ、マタイの25章で「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」また「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われます。なら、こうも言えるでしょう。心の穴から聴こえる声、また聴くべき言葉は、私たちの悲しみを自らの悲しみとして負って下さったキリストご自身の言葉でもある。キリストご自身が、この世で無視されている人々を代弁して、今日の御言葉でも既に悲しみの言葉を語っておられる。そして、この言葉を、あなたがたも共に担い、自分自分という高ぶりを捨てて、神様の憐れみに生きなさいと、私たちを招かれているのです。

でないと、すぐに心が塞がってしまわんでしょうか。悲しみの穴が塞がると、人間は塞がった心を自分の王国にしてしまい、心の使い方だけでなく、やがて時間やお金の使い方まで自分中心になってしまう。そしたら生き方自体が塞がるのです。神様を礼拝することさえ、人間は自分中心にそれをしてしまえるということは、今日の御言葉でも知らされる人間の罪の深みです。この人たちはおそらくイエス様と一緒に礼拝をして、イエス様の説教を聴いたのです。まさしく神の言葉をその礼拝で聴いて、それで何か変わったのでしょうか。イエス様は礼拝で何を求めて語られたでしょうか。いきなり聖人君子になってアッシジのフランチェスコの如く全財産を捨てて修道僧になる、そういうのはイエス様もお求めではないと思いますし、仮にそのような大変化さえ人は高ぶりの為にできてしまう。主が求めておられるのは、穴が開くことでしょう。心が砕かれるという言い方のほうが聖書で馴染みのある表現です。私の間違いだったと自分の罪を認める。いやそれ以上に、神様に対する悲しみを覚える。神様を傷つけてきたことへの愛の痛みを覚える。それがなかったら、単なる自己愛の痛みであって、傷ついたプライドで終始することだってありえます。手負いの獣と言うか、私みたいにウジウジしやすい人間は、そうなると自分でも扱い難くて自分に腹さえ立ちますけれど、そんな私をイエス様が、どうやって扱ってくださるかと言うと、誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるから、幸生、へりくだりなさい、せっかく心に穴が開いたがやったら、その心を低いところに置きなさい。その心には恵みが注がれる。恵みの前にへりくだれ、幸生へりくだれ、幸生と呼んで下さる。このイエス様の招きがあればこそ、そして、その招きに、十字架で死んで下さった私の造り主が、命をかけて、本気で心痛めて、手にも足にもわき腹にも大きな穴を開けてくださって、この穴にかけてあなたに言う、わたしはあなたを愛していると、憐れみを注いでくださっておればこそ、まったくただキリストの憐れみの大きさゆえに、罪人は、自分を捨てて神様のもとに帰れるのです。すぐに塞がってしまう穴であればこそ、キリストが復活された後でなお、その穴を残してくださった、いや、それは残らなくてはならない穴であったとすら、言えるのではないかと思うのです。

お返しができない人を招きなさいって、でもそれって本当に私のことだと思わんでしょうか。無論、何にもできんというわけではないでしょう。ここで言われている人々だって、感謝というお返しはできたでしょうし、それこそ何よりのお返しだと思うのです。私は伝道者とされて、10年目を迎えます。前よりはちょっとましにお返しができるようになったでしょうか。ともするとそう思っていることもあるのではないかと思います。そろそろ年配の信仰の先輩方から先生と呼ばれるのに慣れてもきたかもしれません。でもイエス様から頂いてないもので、私が何か自分の実力でなしえて、神様にお返しできたことなど、たったの一つでもあるだろうか。むしろ神様から憐れまれて、あなたは罪故に滅びずに、生きてよい、生きて欲しい、そして恵みを受けて、キリストに結ばれてキリストの体の一枝として、その業を行って生きて欲しいと、恵みを受けてきた。じゃあその恵みを無駄にしてはこなかったかと問われたら、そして事実私たちがやがてイエス様の前に全員集合させられて立つときに、幸生、あなたはちっとでも皆の前で面目を施すことになると思うかと問われたら、ファリサイ派の人々と同じように、これに対して答えることができないのではないか。でもそれが、打ち砕かれるということでしょう。へりくだる恵みをも神様から与えられるということでしょう。だから、主に感謝することができるのです。こんな私をあきらめないで御言葉を下さり、高ぶりを打ち砕いてくださったうえで、わたしの弟子となりなさい、わたしについてきなさいと、穴の開いた御手を差し伸べ続けて下さっている。そのイエス様に、主よ、私があなたの十字架の死に何かお返しするなんてできませんけれど、私の全てがあなたのものですと、感謝して主を礼拝することができるのです。塞がる心に憐れみの穴を穿たれる、十字架の神様の、恵みに生きることができるのです。