11/1/16朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書13:1-9、イザヤ書5章1-7節
「愛は忍耐強い」
私たち四国にある日本基督教団の教会が、毎週その一つ一つの教会を覚えて祈ろう、祈って全員で主の御用にお仕えしようと願ってお配りした小冊子、「祈ろう四国教区の教会」の中に、一教会だけ日本基督教団でない教会が載っています。新居浜にあります在日大韓基督教会、新居浜グレース教会です。ちょうど先のクリスマスの週に祈った教会ですが、そこに教会堂の写真も載っていました。今はわかりませんが、数年前は高知東教会と同じで、まだ建築費を返済しきってなく、その返済のため教会員たちが手作りキムチを販売して伝道の御用に当たっていました。では、前の会堂はどうしたのと言うと、実は、火事で焼失したのです。しかも隣の家にも飛び火して焼いてしまった。隣人を愛しなさいと神様から愛を託された教会が隣家を焼いてしまい、牧師は本当に苦しかったと言っておられました。安易に心中を察することはできませんが、死を思う程でなかったかと思います。
新聞の国際記事欄を読むと、時折、教会が襲撃をされて礼拝中の人々が殺されたという記事があり、胸を痛めます。どうして礼拝中にという思いも自然と沸き起こると思うのです。狙う人からしたら、無論そこに人が多いからです。でも、どうして神様はそのようなことを許可されたかと、旧約聖書の特にヨブ記や詩編で繰り返し問われた問いを、教会は今も繰り返し問わずにはおれないし、その心情は誰だって自分のこととして問うならば、わからないはずはないと思います。
自分のこととして問うということを、イエス様も前週の57節で私たちに願われました。あなたがたは何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。自分のこととして考えたら、わかるはずだとおっしゃった。丁度そのとき、何人かの人が来て、エルサレム神殿で起こった出来事を伝えました。後にイエス様を十字架につける許可をしたピラト総督が、ガリラヤの何人かを殺害した。しかも彼らは今イエス様たちがおられるガリラヤからエルサレムまで旅をして、エルサレム神殿で生贄を捧げて神様を礼拝していた最中にピラトの刃にかかった。彼は政治家としては歴史書に残るほど悪い政治家で、このような事件もピラトならば、さもありなんと、学者たちも口を揃えるほどのようです。この知らせを伝えに来た人々も、ああ、そうだろうねと思ったでしょうか。ガリラヤ領主はピラトでなくヘロデですから、彼らからしたら、エルサレムに行かん限り、ピラトの狂気からは安全です。だからまるで他人事のようだったのでしょうか。あるいは、このニュースはイエス様に伝えられたとあります。どうしてもイエス様に言いたかったのでしょう。イエス様、何故こんなことが起こったのかと。どうして神はこのようなことを許可されるのかと。現代であれば、神は間違ったことをしているのじゃないかと神様を突き上げるようにして問うか。あるいは、神様への冒涜が死罪にあたることをまだ知っていた当時では、神様が正しくないことをなさるはずはないから、なら、この殺された人々に何か隠された罪があって、神様はそれをお見逃しにならなかったので、こんな厳しい裁きを受けたということなのか。イエス様、あなたは、何が正しいかを自分で判断しなさい、とおっしゃいますが、この場合、どちらが正しい判断ですかと詰め寄った。誰が正しいのか。
そこでイエス様が答えられます。決してそうではない。その態度が、正しくないだろう。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。イエス様は人々の思いの奥に何があるかを鋭く見抜かれます。そして、安易に私たちに同調されることはなさらんのです。日本人は特にそうかもしれませんけど、人は自分に同調してくれん人を嫌うことがあります。自分と調子を同じくして、そうでねえと言ってくれん人は、受け入れなくてもよい、その意見を聞かんでもよいし、ましてや愛さなくてもよいというような、間違った正しさが、教会でも幅を利かせるということはあり得ます。ですから、イエス様の御言葉は常に一貫して、悔い改めなさい、なのです。
無論、じゃあ、同調しなければよいのかということでもありません。人は人で、私は神様を信じて自分の思いを押し通せばよいというのも、神様を信じる態度として正しくないでしょう。人が苦しみにあっているとき、御言葉を聴く者として、その苦しみを自分のこととして判断するなら、そこでの正しさは自ずと知れます。憐れむことが正しいのです。イエス様が続いて譬えを話されたのは、その憐れみの正しさを、私たちに自分のこととして知って欲しいからに他ならないと思います。
ここで、実をつけない無花果を弁護しているのは、明らかにイエス様です。イエス様は、同調はされませんけれど、同情はされるお方です。その同情が余りにも深く広いので、ええ?そんな人に同情せんでもえいろう、その人は受けて当然の報いを受けゆうだけやかと、また嫌われるということすらあります。この無花果って誰でしょうか。ぜんぜん実を結ばない。植えられた無花果としてなすべきことをしてない。その木を植えられた無花果の主人が、それはもう切り倒すしかないと言うのは明らかに、イエス様が言われた、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びるというのと対応しています。しかしそのことは、私たちが人のことを判断するときの基準ではありません。イエス様は初めから、自分のこととして判断しなさい、できるだろうと言われているのです。あの人が滅びるかどうか。それは神様が判断なさることです。その人が結んだ実によって判断されます。それは私たちが口出すことではなく、むしろ私たちのなすべきことも、ここでイエス様は、神様の愛と重ね合わせて教えられます。主が求められる、結ぶべき実。それは憐れみの実を結ぶことでしょう、その人のために執り成し、その人が実を結ぶよう世話をする、それが正しいことではないかと言われる。
ならばイエス様も、切り倒すのが間違っていると言っておられるのではないのです。何でもかんでも受け入れるというのでは決してありません。待ってくださいと言われるのです。きっと実を結ぶようになりますから、そのように私も心をこめて世話しますから、待ってくださいと言われる。でもひょっとして、来年になっても実を結ばないかもしれません。悔い改めず、自分のこととして判断せず、人任せにしたり、神様のせいにしたりして、その正しい報いとして園から引っこ抜かれるのを、相変わらず他人事に思っているかもしれない。これも自分のこととして判断して、イエス様がここでどんな思いで、悔い改めよと言っておられるか、わからない人はおらんと思うのです。どんな思いで、悔い改めを求めておられるか。イエス様の譬えでは、園丁は、後一年、後一年待ってください。そしたら来年になったら実がなるかもしれませんと執り成しますが、その来年の話をイエス様はなさってはおりません。でももし続きがあって、しかも次の年もまたやはり同じということであったとしても、園丁はもう一年、もう一年待ってくださいと言わんでしょうか。そして私たちは実に神様が、一体そうやって、何年待っておいでになってくださっていることか、知らない者がおるのでしょうか。
私が、この神様の正しさを、雷に打たれるような思いで説教から聴いたのは、確か17年前です。人の判断、私たちが勝手に神の座に上がり込んで行う裁きの判断には、欺瞞がある。仮に、この人はあの罪の故に裁かれたのだという判断が、それ自体としては正しかったとしても、そこで自分は大丈夫だと思っているあなたは正しくなく、しかも、悔い改めなければ滅びるほど、死ぬほど間違っている。そのあなたが滅びに至ってない理由はただ一つ、神様があなたを憐れまれ、そのためにキリストを十字架であなたの身代りとされて、そのキリストの上に一滴の憐れみをも施さなかったほどに、御子をあなたの代わりの罪人として、正しくお裁きになったからである。もし、その他にあなたが自分が生きているのは、何かしら自分に正しいことがあるからとか、自分はそこまで罪深くないからと思っているなら、それは全くの欺瞞であると、その説教者は、厳しくも正しい、そして限りなく優しいイエス・キリストの福音を叫ばれるようにして説教しました。それ以来、私の人生は変わってしまったと言えるほどの衝撃をもって、私はキリストの福音をそのとき改めて聴きました。それもまたキリストが望んでくださった私にとって必要な悔い改めであったと思います。
神様がこれを基準に私たちを裁かれ、そして救われる正しさとは、この世界が造られたときに、神の言として働かれた御子イエス・キリストが、聖書の御言葉を通して、また、人となられて命をもって示された、あの聖なる愛の正しさです。その愛から離れても尚正しいということは何一つなく、人を傷つけ、造り主を悲しませ、そしてその罪故に正しく裁かれる他、人にはない。しかし神様は御子を私たちに代わって滅びに至らせ、十字架で完全な正しい裁きをしてくださって、そこにこそ神様の愛の正しさを敢然と輝かせ、だからあなたも悔い改めて、自分の道から立ち返り、このキリストの愛の福音を信じなさい。キリストの弟子として、この愛を背負って生きなさいと私たちが新しく生きていくことのできる正しさを、キリストによって下さった。この正しさを、御言葉の正しさ、十字架の裁きと憐れみの正しさを、私たちは自分のこととして生きていくことができるのです。
この十字架の正しさを、私のための正しさとして生きるとき、質問は変わってくるのです。誰かを指さし、あの人が災難に会ったのは何故かと問う代わりに、どうして私がまだ滅んでないのかと問うようになるでしょう。どうしてシロアムの党は私の上に落ちてこないのか。どうして私の友人が川で溺れたとき、同じ川で何度も泳いでいた私が、どうして溺れなかったのか。どうしてあの人が苦しんでいる、あの苦しみを、どうして私は苦しんでいないのか。何故、私は神様の前に、滅ぶべき罪を犯していながら、どうしてまだ滅んでないのか。それは神様がキリストによって、私たちに憐れみを差し伸べて下さっているからです。来年は実がなるだろう、悔い改めの実を結ぶだろうと神様が待っておられる。この神様の忍耐によって、人はキリストの福音に生きられるのです。