11/1/9朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:54-59、マラキ書3章1-5節 「わかってるはずなのに」

11/1/9朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:54-59、マラキ書3章1-5節

「わかってるはずなのに」

 

ここ二年ほど、高知分区の教会青年達が高知の目抜き通り、帯屋町でクリスマスカロルを歌っています。笑顔で見てくれる人もいますけど、道行く人皆が足を止めて聞くわけでもなく、クリスマスは近くの教会へどうぞという案内を配ると迷惑そうな顔をする人もいます。そんな時、私たちは群集に向き合っているのだと強く感じます。

イエス様もまた群集に語られました。ただ、この群集はイエス様の話を聞きに来た人々の群れですから関心はあるのです。クリスマスカロルだって、かわいい清和の女学生達の歌なら皆笑顔で聞いてくれたかもしれません。関心はある。イエス様に好意を持っていた人々も少なくはなかったでしょう。今でもキリスト教会に好意を持っておられる方々は少なくないようです。けれどイエス様の話を聞きに集まった群集も、まだイエス様の弟子にはなってない。関心はあるけど、弟子はちょっと、ということでしょうか。礼拝はえいけど、洗礼はちょっと、ということもあるでしょう。私も20年前はそうでした。また、教会に行くのは良いが深入りはするなと親から言われる人もいます。まるでお酒、パチンコ、競馬など、少しやったらいいけれど深入りはするなと、教会も悪い楽しみのグループに仲間入りさせてもらっているのかもしれません。いずれにせよ、キリストの仲間、弟子になるのには、ためらいを覚える。そこに壁を置いてしまう。神様との間があんまり近くなって、今の生活を変えなければいけない、ということになると困ると考えるのは、しかし、キリスト者であっても他人事ではないと思うのです。事実「イエス様はまた群集にも言われた」と聖書が告げるとおり「群集にも」ですから、私はもう弟子だから関係ないという人は一人もいません。ということはここでイエス様は弟子たちをもまたじっと見つめて、神様との間に壁を作ってしまう人々よ、偽善者よと、いやーイエス様、容赦ないですねえという言葉を語られたことになります。

たぶん身内から言われて、一番こたえる言葉ベスト10に入る言葉ではないでしょうか。鬼と言われても、ま、ここは心を鬼にしてということもありますし、嘘つきと言われても、ああ、すまん、俺は口ばっかりやと反省をするような気もしますが、偽善者と呼ばれると、何か人間失格という響きを感じるのは私だけでしょうか。聖書に記されたもとのギリシャ語の意味は、仮面をつけてギリシャの劇をする俳優のことです。転じて、仮面をつけ善人を演じる偽善者という使い方になったようです。顔の前に壁を作って、心は見せない。誰にでしょうか。人に、ということも、もちろんあるかもしれません。偽善のない人、真実を隠してない人っているのでしょうか。嘘の中でも一番こすい嘘は言わないという嘘だと思われんでしょうか。でも、そうせんと生きていけんということもある。そこには、言わないという優しさもあるのかもしれません。言われた方がまいってしまうということもあり得ます。じゃあ、神様の前にはどうかとキリストは問われる。神様の前には隠し通し得ることなど何一つないのに、そして、神様が、まいってしまうことなど決してなく、むしろ、その嘘をご自分が十字架を負ってでも赦してくださり、仮面を被って生きる息苦しさから解放してくださって、自分を責める苦しさや過去に縛られる束縛から解いて下さる。それが、ご自分の民をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であると、モーセの十戒で語られた、あの救いの神様である。なのに何故その神の言葉を今聴いている弟子たちも、その横で聴いている群集も、人に隠すのはわかるけど、どうして造り主なる神様の前に、壁を作ってしまうのか。天地の表情の変化は見分けても、いま私たちに向き合っておられる神様の表情を見分けようせず、神様がいま私に語りかけておられる、この時の重さを、自分の人生の重さとして識別することができないのは何故だろうかと問われます。あなたは自分でも見たくない罪を主の前に剥き出し直面して、あなたの造り主に向き合っていますかと、神様ご自身が向き合われるのです。

自分で判断して欲しいとも言われます。どうして自分で判断しないのかと、文法としては疑問形で言われますが、これは、本当は自分のこととして判断できるはずでしょう、あなたから判断して欲しいのだというアピール、心に訴えかける、強調の表現です。何を判断できるはずなのか。正しさです。しかも神様から、そうだ、その生き方、その愛、その聖さ、その勇気、その憐れみは、わたしの目に正しいと、今も、そして死んだ後、神様の前に人生全体を裁かれる時にも、神様から正しいと受け入れてもらえる、神様に造られた命の生きるべき正しさを、あなたは自分のこととして重く受け止めて欲しいと言われるのです。言うなればそういう神様の正しさとかいうのは宗教の事柄だから、そういう非日常のことは宗教の専門家にまかせて、むずかしいことを言われてもかなわんから、先生、要するに、何をすれば救われるか、これだけしておればかまんという義なる務め、言わば宗教的義務は何かを教えて下さい。後の生きることは、自分でやりますからと。これが仮面だということは、誰でも、よくおわかりになることだと思うのです。でもやってしまう。本当はわかっていることなのに、神様の前に生きることも、人を愛して生きることも、何が命の正しさか、本当はわかっているはずなのに、だから仮面をつけてモゴモゴと口ごもるか、自分自身にすら偽善的に向き合って、威勢のよすぎる雄弁な自分の正しさの弁護者を演じて、神様に向き合うことを避けてしまいやすい。ある人が、人間はもれなく偽善的な体質を持っていると言った、そのもれなくという言い方が可笑しかったのですが、言いえて妙だなと思うのです。

でもだからこそ神様は、私たちのもとに人として来られ、十字架で、罪の赦しを下さいました。神様ご自身が十字架で罪を償って死んで下さり、また三日目に復活されて、あなたの造り主は生きている、そのわたしの言葉、あなたの命も人生をも救い出す神の言葉を、あなたは自分のこととして聴きなさいと、今も私たちに語りかけておられます。教会が神の言葉を聴くということを、どうしてこんなにも重んじるのか。でないと見分けられないからです。私たちが自分の存在の重みをかけて神の言葉を聴く時に、今の時を見分けるということも、正しく生きるということも、あるいは正しく死ぬということさえなされ得るからです。

もう20年近くになりますが、ルーマニア元大統領のチャウシェスクが造り上げた恐ろしく非人道的な独裁国家が崩壊しました。その要因は、秘密警察に連行され殺されるのを恐れて生きながら死んでいた大勢の群集が群集を止めて立ち上がったことです。ある地方都市での教会弾圧に端を欲し市民がデモ行進をした。軍隊に阻まれ、発砲されて、犠牲者が出ても、群集は群集であることをやめ、これは自分のことだと、声を大にして、神は生きている、神は生きていると叫んだ。やがて軍もまた、自分らの方が間違っていると、偽善的群集であることをやめて市民側につくのです。それに恐れをなして、ヘリで逃げ出した大統領でしたが、そのヘリの操縦士も、その時、群集であることをやめるのです。そして、先に群集であることを止めた人々の間に着陸をし、大統領は捕えられ、民衆に自由が訪れます。遠い過去でなく、私たちの時代においても、今の時が見分けられている、そして今の時が見分けられたとき、何が起こるのかということの、最も印象的な証の一つであったと思います。

時と訳された言葉は、いわゆる時間、タイムをいうのではなくて、むしろタイミング、あるいはチャンスと英語では訳しうるのですが、日本語では難しいニュアンスだなと思います。立つべき時がある。あるいはそこまで行かずとも、例えば土地建物の大きな物件を買う時、簡単にはいきません。高知中央教会でも色々悩みつつ、会堂・牧師住居を買いたいと祈って探しています。でも1千万単位の買い物です。そう簡単には買えません。でもきっと、これだという物件に出会い、しかも、今だという買い時は、あると思うのです。また逆に、しもうた、あの時に、と後悔しても後の祭りということも、人生に多くあるのだろうと思うのです。主は、その時を見分けなさい、今がその時だと言われる。あなたが負債を負っている相手に対し、手遅れになる前に、和解を願うのは当然だという譬え話をもなさいます。そら当たり前やかと思う話です。でもこの人は、まあ何とかなるだろうと、どうも考えているのです。本気で訴えられることになるとは思ってないのか。まあ、きっと役人も、そんなことで裁判にするとは考えてないのか。仮に裁判になっても、そんなに厳しい裁きがあるわけではないだろうと考えているのか。ズルズルズルズル、まるで仮面の裏側の私みたいだと嫌な恐ろしさを感じるこの人は、まだ大丈夫、まあ、何とかなると考え続ける。しかしイエス様は、いや、そうではない。今、この人と共にいるこの時に和解を得なさいと言われるのです。

イエス様の話を聴いていた群集は、この自分を訴える人を、一体誰だと考えて聴いていたでしょうか。教会の伝統的読み方の一つに、これは神様だという読み方があります。確かにそういうことも言えるかもしれません。訴える理由はあるのです。イエス様であれば尚更です。群集は結局イエス様の言葉を聴きながら、最後には、やっぱりこんな男はと、十字架につけて殺すのです。その群集を訴えるということをしても何もおかしくない正しいことです。しかしキリストは罪を訴える代わりに、父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのですと、赦しの訴えをなさいます。おかしいやろうということをなさるのです。でも、だから人間は救われるのです。神の子が死ぬというおかしなことがない限り、人がそのまま救われることがない程に、人はおかしい判断をしてしまう。でも、その私たちを救われるために、神様が、わたしが死んで、あなたを赦すと正しい判断をして下さったから、だから聖書は声を大にして告げるのです。神は愛なり。私たちもまた大声で、神様は生きておられると信仰と讃美の歌を歌うのです。帯屋町で歌うときには時を見分けなければなりませんが、神様には今、言ったらよいのです。主よ、あなたは生きておられます。だから私をお救い下さいと。存在をかけて祈る者たちを、主は、ご自分のこととして救われるからです。