10/6/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書8:16-21、詩編122:1-9 「愛の家族を求めて」

10/6/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書8:16-21、詩編122:1-9

「愛の家族を求めて」

 

先週木曜、金曜と続けて、金田千代恵姉妹の前夜式、葬儀式をここで執り行いました。その中で、例えば讃美歌を紹介する時に、これは姉妹の愛された讃美歌で、と説明した後で、あ、姉妹と言っても教会に馴染みのない方には通じてないかも知れないと、金田千代恵さんの、と言い換えて説明をしなおすこともありました。が、私たちからすると、特に祈りの中で、愛する兄弟姉妹と呼ぶことは、もうあまりにも身についてしまっているので、逆に説明し直すのが耳に障るのではないかと、そのまま、姉妹はという言葉使いで式を行いました。そして、改めて思わされました。私からすると、姉妹というよりは、もうおばあちゃんなのですが、そのあたりはイエス様もこだわっておられなくて、こう言っておられるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」すごいことだと思います。イエス様から、わたしの母と呼ばれてしまう。母マリアなどカトリックでは崇敬対象とされているぐらいですから、え、私がイエス様から母と呼ばれるなど、とんでもないという感覚ですが、ま、イエス様からすると、要するに、わたしの家族だというお気持ちなのだと思います。ということは、金田さんと私とは同じ家族の一員なのだと、私としてはうんとしっくりきました。神様の家の同じ屋根の下で、御言葉を聴き続け、家族を愛し続け、家のため、家族のために仕えてきた同じ家族の一員である。確かに教会は、そのような神の家族です。皆、イエス様の家族の一員なのです。

またもう一つ印象深く思ったことがありました。お葬儀が終わってからしばらくして娘が妻に、皆帰ったが?そうよ、皆お家に帰ったがよ。じゃあ死んだおばあちゃんは、イエス様のお家に帰ったが?と尋ねた。それを聴いて、そうだ、金田さんはイエス様のお家に帰ったがやと改めて感動しました。確かにイエス様はこう言われた。「わたしの父の家には住む所が沢山ある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」金田さんは、ついにイエス様のお家に帰ることができた。何と素晴らしい慰めかと思います。そして同じイエス様の家族として、同じ屋根の下でイエス様の慰めの御言葉を聴くことができることも、何と喜ばしい恵みかと思うのです。

いま読みました、二つに区切られた御言葉は、どちらも、神の言葉を聴くということに焦点が絞られます。それは前の種蒔きの譬えからのつながりです。神の言葉が種蒔かれる。けれどその聴き方や求め方によって、全く受け止め方が違ってしまい、結果が違ってくると主は言われました。神の言葉を神の言葉として受けるに相応しい態度がある。では、その神の言葉とは、どういう言葉かが説き明かされます。神の言葉は、人間の暗闇を照らす、ともし火の光のようなものであると言われるのです。ともし火を暗い部屋に灯すのは何故か。部屋に入ってくる人に光が見えるためだ。キリストの言葉、神の言葉は、だから聴いたら、あ、光がある、光が見えるぞとわかる。そのために語られているはずでしょと問われます。これは説教者にとっては大きなチャレンジでもあります。もし聴いている人がわかってないとすると、それは下手な説教で御言葉の光を覆い隠してしまっているからじゃないかと、主に問われているようにドキッとするからです。けれど説教者だけが問われているわけでもないでしょう。イエス様は、だから、あなたがたは、どう聞くかに注意しなさい、自分の聞き方を、よく見なさいと言われるのです。どんな聞き方をしているか。あなたには神の国の光が見えているか。そこが急所だと言われます。

それにしても、部屋に入ってきた人が光を見る、それは御言葉を聴くために教会にきた人々のことでしょうけど、光それ自体を見に部屋に入ってくるということではないでしょう。光は何かを照らすのです。光に照らされた、私たちの生き方、また生きるべき道が見えてくる。例えば教会の葬儀では、単に故人の略歴やエピソードが紹介されるだけではありません。その人を生かした御言葉の説教をするのです。そしたら、光に照らされた故人の歩んできた道、いやイエス様が共におられて光の中を歩ませて下さっていたのだと、キリストの恵みの道が見えるようになる。それ以外に、葬儀でキリストの慰めを得ることはできんでしょう。その人を生かしたキリストの光、赦しの光、愛の光が、しかし、私たちの生き方、歩み方、そして聴き方を照らして見せてくれるのです。

その意味では、イエス様が「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と、後でも、繰り返し語られているのは、二重の響きを持っています。一つには、神の言葉は隠されてない。あるいはそこで語られる神の国の奥義を、キリストは、皆に明らかにしようと来られたのです。それが、神の国の奥義、イエス・キリストの福音です。天の父は、私たちを神の家族とするために、ご自身の御子を人として世に遣わし、私たちの罪の身代りとして十字架につけられて、その死によって、人の罪を全部赦してしまわれた。この罪の赦しの光によって、人は罪赦されて救われるのです。そして復活の光の中に生きられる。死んでも生きるのです。

けれど、その光が私の人生を照らすとき、その光によって照らされた私の罪を、私は見ないわけにはいかなくなります。隠れている罪が光によって露にされるとき、どうするか。これをどう聴くか。主が、わたしはこの罪も赦したと照らされる福音、キリストの救いの御言葉を、どう聴くのか、注意せよと主は言われます。

そこで改めて、この光に照らされて歩んできた金田姉妹の証を聞きたいと思いました。この高知東教会の会堂が、間もなく完成するという2000年6月に発行した麦31号で姉妹がこう記しています。「東教会のこれからの歩みも、イエス様抜きに自分の考えに振り回されたなら疲れ切ります。老いも若きも持てる力を出し合って、復活の主のお働きを信じ歩いてゆく教会になりたいと思います。」イエス様抜き、光を抜きにして自分の考えに振り回されたなら疲れ切る。私自身、自分の信仰生活を振り返って、ああ、そうだなと思うのです。姉妹もまた自分がどんなに、自分の思いに振り回され易いか、赤裸々に証をされたのでしょう。本当に疲れる。疲れ切ってしまう。けれど復活の主の光に照らされて、赦しの光、キリストの愛の御言葉を聴くときに、自分から自由にされるのです。力を出し合って歩めるようになる。そこに家族の生き方も見えるのです。この言葉を、私は姉妹から私たちへの遺言のような思いで聴きました。御言葉の光を持って生きることがどんなに素晴らしい自由な生き方であるか。しかし持ってない人は、と主は言われます。御言葉の光に替わる言葉、自分の言葉に生きるということでしょうか。イエス様抜きの自分の考えが、じゃあ死んで神様の前に立つときに、その人を照らしてくれるだろうか。自分の考えが一体何の役に立つだろうか。全部取り上げられてしまうと言われるのです。

だから、そういうことにならんように、主は御言葉を語り続けて下さっています。聞く耳のある人は聞きなさいと招き続けられ、光を隠して神の言葉なき闇を歩むなと、優しく注意をされるのです。私たちは自分の力で得てきた、あるいはラッキーにも得てきたと思うモノを、神の国で見出すことはありません。そして、イエス様が続いて言われるには、そこには、地上の家族すら含まれうる。マルコによる福音書によると、このとき母マリアと弟たちは、周りの人から、お前の兄貴はおかしなことを言いゆうと言われ、家の恥だと、イエス様を連れ戻しにきたといわれます。そこでイエス様が言われるのです。私の家族は、どこにいるのかと。私たちも、あるいはよくわかることではないかとも思うのです。家族なら何でも分かり合えるかというと、必ずしもそうではない。今の時代ますますそうなっているかもしれませんが、昔から、血のつながりは、何でも分かり合える保証ではないのです。厳しいことを言うようですが、ここに人間の罪の厳しさがあるのです。血のつながった家族であっても、心と心がつながっていないことがある。おそらくイエス様の弟たちも、兄への一種の愛故に、そうしたのだろうとも思います。でもその愛は、その名を愛と呼ばれ、御子を罪人の救いのために十字架におつけになられた神様の裁きの前で、その愛は本当に愛として立ちうるか。自分は愛を持っていると思っていても、それは自己愛の押し付けから、どれだけ足を踏み出しているか。あるいは種蒔きの譬えで言うならば、しばらくの間は愛していても、試練に遭うと身を引いてしまう一時的なつながりを、確かな愛と呼べるだろうか。

けれど、そこで物分りが良くなりすぎて、だから、人間に確かな愛など求めても仕方がないと、愛をあきらめてしまうこともまた、御言葉の光抜きの、自分なりの納得の仕方になるでしょう。家族に愛を求める。家族ならそうでしょう。イエス様だってそうなのです。私たちに愛を求めておいでです。血のつながりを無視するというのではありません。そもそも、そのつながりを与えて下さった神様が、ならば、それに見合った愛のつながりを持って欲しいと、自ら血を取り肉を取られた。これを本当のつながりにして欲しいと、聖なる神様の血によって、ここに確かな愛がある、永遠の家のつながりだから、この家のつながりに結ばれて確かな関係を結んで欲しいと、天の父の限りなき愛の御心を、私たちに明らかにされたのです。神の言葉に照らされるとき、家族の祝福もまた見えてくる。一朝一夕に、どうかなるものではありませんけど、御言葉を聴いて、はいと天の父の御心を行うときに、イエス様が、あなたはわたしの家族だと喜んで下さり、拙い愛をも祝福されるのです。金田姉妹の葬儀が全部終わって、ご家族から、母が、どうしてこんなに教会を愛したか、少しわかるような気がしましたとお聞きしたとき、本当に嬉しく思いました。キリストの光に照らされるとき人生の意味が見えるのです。キリストが決してあきらめることなく、赦しの御言葉を語りかけ続けて下さっている。教会はそこに建ちます。神の言葉に生きるのです。