10/2/7朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書4:31-37、ダニエル書7:13-14
「別格の言葉に触れ」
イエス様が語られると汚れた霊が叫び出します。かまわないでくれ。先の口語訳は、こう訳しました。あなたと私たちと何の係わりがあるのですか。突き詰めて言えば、ある意味、世界中の人間を代弁しているような言葉かも知れません。信仰者をも含めてです。かまわないでほしいときがあるのです。神様に対して、あなたと私に、何の関係があるか。あなたには関係ないし、少なくともこの件に関しては、あなたとの関係は欲しくない。かまわないでほしい。放っちょいてくれんだろうか、ナザレのイエスよ。とても他人事とは思えない、人間存在に深く関係する言葉だと思わざるを得ません。そして、その私たち人間を解放するため自ら私たちとの係わりを求めて人となられた神様を思うのです。何と私たちの近くにまで、あっちに行ってほしいと言われるほど近くにまで、主は今日もまた来てくださっていることかと。
その言葉には権威がありました。空疎ではない、心に届く力ある言葉を人々は聴きました。けれどただ癒されるとか、心理的な共感を覚えて心洗われる気持ちになるという言わば人間の次元を、超えた権威です。これは誰が語っているのかと、明らかに目の前の人が語っているのですが、いやこれは神様が私に語っておられるのではないかと思える言葉。そうした緊張感や異質さを覚える言葉をこそ、人は権威ある言葉として聴くのです。単に迫力があるというのではありません。以前、野口先生の説教は、話の内容はわからんかったけど、何かすごい話をしているという迫力だけは伝わってきたと、評価と言うのか酷評と言うのか、でもそういうのとは一線を画すのです。それは心理的な迫力に留まります。そんな話なら、どこでも聞けます。
神の言葉は、今日私たちに迫られる神様に、私たちの霊を向き合わせます。人間の心の更に奥、あるいはそれとは別次元にあるその人の霊の扉をガタガタと揺らして目覚めさせ、あなたは、どこから来て、どこに行くのかと、神様に向かって起き上がらせようとする。そういう別次元の力を持っているのが、イエス・キリストの言葉です。
人の言葉も、心を揺らすことはできます。例えば私には、サザエさんスイッチというのがあって、あの番組を見ていて涙することが再々あります。波平が手帳を買って毎年真っ先にすることがある。それは家族の誕生日に丸をすることですよと舟が子供たちに語る場面など、不覚にも食べよったご飯が喉を通らんなるほど胸詰まることがあったりします。無論、そういう心は大切にしたいと思うのです。でもそれだけで、神様に向き合わされる人がおるでしょうか。おったとして、どういう神様のイメージをそこに浮かべるのかと思います。神様の存在を信じておっても、たとえ信仰者であったとしても、人間の常識に引き渡された残像のような、あるいは悪霊が叫んだように、正体はわかっていると言いながら、しかし的を外したイメージに終始することは、私自身、過去を振り返って如何に多いことかと思います。わかっている、ということほど、曲者である嘘つきもおらんのです。心揺れても、涙を流しても、変わってない自分がおるのです。そのときは新しい気持ちになるのですけど、依然として古い私に支配され、どうしたら新しくなれるのか。どうしたら自分の心を信じたり自分の力を信じては繰り返す、愚かな過ちから、逃れられるか。その人の霊を揺り動かして起き上がらせる、神の言葉によるのです。神様を信じてのみ生きられる霊を、暗闇に幽閉する古い人から解き放ち、解放し自由にするのが、イエス・キリストの福音です。
この御言葉は、そのように霊を揺り動かす言葉であればこそ、汚れた霊も動揺せずにはおれません。できる限りの抵抗を試みます。古くから悪魔の常套手段であった、もっともらしい嘘で人々をかく乱しようとするのです。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だと叫びます。それを聞いておった人々も、おお、そうなのかと鵜呑みにしそうな、そこだけ聞いたら、まことしやかな、けれど的を外した嘘をつきます。問題の焦点から目をそらさせて、これが大事なことでしょうと、誘惑するのが悪魔です。アダムとエバを背かせた時も、イエス様を荒れ野で誘惑しようとした時も、私たちのときもまた、同じ手口を用います。吟味しなければいけません。罪については言わんのです。我々を滅ぼすために来たのだろうと、それは間違いではないですが、それでは罪はどうなるか。あいつが悪くって私は悪くないか。それはもうアダムとエバが繰り返しやったことではなかったか。たとえ悪魔が滅んでも、罪は滅びやせんのです。罪の問題が急所です。ここに救いの的があります。この問題が解決せんと、人間に救いはありません。
だからキリストが来られたのです。罪の生け贄として死なれるために神様が人となられたのです。ナザレ村に育った人間イエス?その通りです。私たちと同じ弱さを担われた、親もおれば兄弟もおる、そして親を失った悲しみを知っており、友人知人から嘲られた痛みを知っている、私たちと同じ人間イエスです。そのようにして、イエス様は、私たちにかまわれます。わたしはあなたと係わりがあると言われるのです。主は悪魔を滅ぼすためだけに来られたのではありません。私たちが滅びることのないように、神様がイエス様において見つめておられた救いの焦点は、罪が御子の十字架で滅ぼされることです。私たちが神様と和解して罪と滅びから救われることです。そのために御子は人となり、私たちの身代りに十字架に架けられて、私たちの罪と裁きを抱きかかえたまま、ご自分の滅びを受け入れられて、罪を赦してくださったのです。この方は、悪魔が言うような一般的な神の聖者ではありません。聖さの次元が違います。この方は、私たちの救いのために人となられた、聖なる神様ご自身です。だから、人間は救われます。私たちが負っているこの罪を聖なる神様が負われたからです。
悪魔はいつも真実をひっくり返し、人間はいつも裏返されます。天と地の権威をひっくり返し、神の裁きすら何とかなると、自分を信じては倒立し、何度も痛い目に遭っているのに、お前力があるにゃぁと煽られる。まるで絨毯爆撃のように自分を信じろという誘惑に曝されて、これを受け入れる世界の中で、人間は倒立を続けてしまいます。
しかし、そのように世界を滅ぼそうとする嘘に対して、キリストは、黙れとお叱りになるのです。悪魔は滅び、その罪は滅びても、あなたは滅びてはならないのだと、その罪は、背負われ、釘打たれ、裁かれて、あなたの罪は赦されたから、起きよ、目を覚ませ、新しい人よ、滅びの淵から起き上がれ。神に背負われたこの人は偽りに生きることは許されないと、汚れた偽りの霊は皆、黙ってこの人から出て行けと、キリストは命じて下さるのです。そのために降って来られたのです。キリストに無関係な人などおりません。キリストに、かまわれてない人もおらんのです。聖なる神様に向き合わずして、逆さに倒立し滅びに下降する人間向けて、キリストは天から垂直に下降して、私たちを両腕に抱え込み、ご自分が滅びに叩きつけられることを良しとされました。そのような力を言うのです。そのような権威があるのです。権力によってではなく、僕となられたイエス・キリストの犠牲によって、罪赦されて受け入れられて、新しく目覚める霊に生きるのです。その名を愛と呼ばれる聖なる主の名を、愚直なほどに呼び続け信頼して、キリストの自由に生きるのです。神様を信じる自由があるのです。縛り付ける権威でなく、自由にされる権威によって、神の子らは、今日も新しく起き上がります。人間の霊を生かし得るキリストの言葉によって、新しく生きていくのです。