10/1/31朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書4:16-30、イザヤ書61:10-11 「歓迎されぬ派遣」

10/1/31朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書4:16-30、イザヤ書61:10-11

「歓迎されぬ派遣」

 

イエス様は人間の貧しさの中に降りて来られて、そのまま、私たちを受け入れてくださいました。貧しく、捕らわれ、罪の奴隷となっていた私たちの鎖を、ご自分の両手両足に引き受けて、私たちが神様に対して負っていた負い目と負債と償いとを、その背中にご自分の十字架として担がれて、そのうえで主は言ってくださいました。これであなたは自由になる。

預言者イザヤが、そして聖書全体が告げていた神様の約束が、ここに実現したのです。

主が言われる貧しさとは何でしょう。主の言われる貧しい人は、どこにいるのでしょうか。捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人。主が、その人は幸いなりと、十字架を担いで言われたその人。神様がイエス・キリストを遣わし与えられたその貧しい人は。

血液が貧しいと書いて貧血と言いますが、外見だけでは見え難いのがこの貧しさかもしれません。生きていく上でどうしても必要な、中身が貧しい貧しさがあります。心の貧しさということが言われます。教育の貧しさ、必要な知識の貧しさ、人間関係の貧しさ、愛の貧しさ、いのちの貧しさ、これが無かったら生きていけんのに、その必要なものがこの体の中に流れてなくって、貧しい、ということを、私たち本当は知っているだろうと思います。

捕らわれているという貧しさがあります。自由になってないのです。どうしても、その捕らわれてしまっている何かにこだわって、自由になれない。捕らわれてしまっている。皆が同じように捕らわれていたら、捕らわれていることすら見えなくなって、集団の恐ろしさというのでしょうか、頭に来てイエス様を崖から突き落とそうとした集団のようにさえなってしまう。そうしたどうしようもない貧しさは、けれどおそらくはもっとひっそり、見えているのに見えないままで、あちこちに現れているのではないかと思うのです。

その貧しい人を、神様は見つめられていると言うのです。責めるためでも見下すためでも、その罪を裁くためですらない眼差しで、神様は、そのあなたがたにわたしはキリストの福音を告げると言われたのです。18節で「油を注がれた」と訳された言葉は、キリストとされたとも訳せます。旧約の時代、神様から特別な使命を託され、よろしく頼むよと、選ばれた人の頭に、オリーブ油が注がれました。王の戴冠式、あるいは看護士の戴帽式をイメージされると良いでしょう。イエス様が十字架の救い主として、世の罪を取り除く神の小羊、聖なる生け贄として洗礼を受けられたときに、三位一体の父なる神様が、聖霊なる神様をイエス様に注がれた、あの洗礼を思い出しつつ、イエス様はこのイザヤの預言を読まれたのでしょう。襟を正すが如く心して読まれたと思います。そのイエス様の眼差しを思うのです。決意した、強い輝きを放ってはいるが決して荒々しくはなく、何もかも受け入れて赦してくださる深い眼差しで、十字架の救い主として、罪の償いのために人となられた神様が、そうだ、ここにこの預言の言葉は成就した、わたしはこのために生まれてきた、この恵みの言葉は、ここに実現したのだと人々の前に語られた。その決断の深さを思わずにはおれません。全部イエス様次第なのです。既に十字架を担がれておるのです。

またそのプレッシャー、圧迫感も如何ばかりであったかと思います。全部がイエス様の肩にかかっているのです。私たちの身代りとなるために、まったく私たちと同じ人間となられたイエス様に、重圧がなかったとは思いません。実際この福音書を読み進めるにつれ、イエス様が一人祈る姿を繰り返し見つけるようになります。重圧が迫ってくるのです。私たちが罪に捕らわれて逃げ出せない圧迫を感じるという、そういうのとは違って、イエス様は自らを十字架に渡され、私たちの身代りとして釘打たれたが故に、逃げられない。いや逃げない。逃げないと決めた。でも重い。しかしだからこそ負わねばならない。キリストとしての重圧を負われるのです。私たちを、罪の圧政から解放し自由にするために、御子は重荷を負われるキリストとなられます。

この世は、重荷を負って何かに捕らわれて苦しんでいる人の解放について語るとき、それは気持ちの持ちようだと言うかも知れません。気持ち次第で変わるのだ、結局は自分次第だと、テレビも雑誌も世間様も、アフターケア無しの無責任な解放を語ってはくれます。重荷を負わない自由を語り、自分次第だと言うのです。

神様はその世界に向かって、いや、解放は油注がれたキリスト次第、神が罪人の身代りに死んで罪赦すという、恵み次第だと告げるのです。貧しい人に告げるのです。キリストの恵みがやってきたと、恵みによる解放を告げられます。恵みという言葉は、恵みの雨とか、太陽の恵みを一杯に受けてと言うように、一方的に与えられる天からの慈しみです。善人の上にだけ太陽がまぶしく輝いて、隣の罪人の頭上には黒雲が留まっている、というのは漫画の世界だけです。むしろ、そんな人がおったなら、その人目がけてキリストは救い主として降られたのです。そして恵みが来たと言われました。罪からの救いは、神様からの恵みによる。自分次第ではないのだと言われます。

恵みとここで訳された言葉を、明治の文語訳は「喜ばしい」と訳しましたが、直訳は「受け入れられる」です。人は受け入れてくれんでも、何と神様が受け入れて下さるときが来た、何と喜ばしい恵みが来たことかというのです。旧約の時代、貧しさゆえに自分を身売りして奴隷にならな生きていけん人々を主は憐れまれて、こういう決まり・律法を定められました。その人にどんな借金があっても、七年目にはその負い目、負債をなしにして、自由の身にしてあげなさい。そしてその七年が七回来た翌年の50年目には、誰かに売って、もはやその人のものではなくなっていた先祖代々の家の土地も、ただでその人に返してあげなさい。わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。これが、イエス様が読まれた、主の恵みの年です。負い目のあるまま、負債のあるままに、神様が私たちを受け入れてくださって、負い目から自由にして下さる。本当に受け入れられるというのは、そういうことでしょう。そして、それは恵みによる以外ないのです。愛と言っても良いのです。負い目を負っているその人が、それでもそのままで受け入れられるには、そこには愛があるのです。償いきれなかったその負い目を、愛ゆえになしにして受け入れる。その恵みの償いを、神様は、これがあなたがたの救われる道だと言われます。当然、受け入れる側で払います。受け入れる側で償って、支払いを全部済まして、だから、あのことはなかったことにしようと言って受け入れる。愛故に自分が犠牲となって、罪を赦して受け入れるのです。

このイエス様が語られた説教を、イエス様を小さい時から知っているナザレの人々は聞きまして、たまげた!こんな恵みの説教があるかと、一応ほめはするのです。が、けんど、この人はヨセフの子じゃいかと、そういう驚き方をするのです。確かに他の町や村で聞いた評判どおり、月並みで退屈な説教ではなかったし、腸にズシンときたけれど、それを語った人の、外見を見てということでしょうか、どういてこれをヨセフんくの子から聞かないかんがかと。説教を、しかもイエス様の言葉を、神の言葉として聴くことのできない貧しさ、自分の思いに捕らわれて、聴こえていて見えているのに、罪に押しつぶされて、聴こえず見えないその貧しさを、イエス様はどんな思いで、そこに一人座って、見つめておられたかと思います。

聴けないのは聴く側の条件次第だと思っておられたでしょうか。その条件さえ彼らで整えることができたら、そしたら聴くことができるようになるのにと、どうしてそのようにしないのかと、あるいは環境的条件が整ってないから、同じナザレ村に育ったがばっかりに、聴ける条件が整わなかった。ああカファルナウムに育っておったらなどとイエス様は思われたでしょうか。聴く側の条件に固執され、責任はその人にあると考えて、ご自分の重荷を下ろしたでしょうか。無論、ナザレの者たちも責任転嫁することはできません。責任をいい加減にしてよいなどということではないのです。責任は問われます。神様が裁きをなさるというのは、要するに責任を問われるということです。神様は責任を大切にされます。神様の裁きはあるのです。けれども、神様がもっと大切にされることがあるのです。責任を決していい加減にされない神様が、その責任を自ら負われて、わたしがその責任を負ったから、あなたはその裁きから自由にされると、責任を大事にされるより、私たちの救いを大事にされて、その正義はわたしが責任を持つと言われたのです。

イエス・キリストの福音が聴けんとき、確かにそこには私たちの条件があります。聴くに貧しく、何かに捕らわれて、主の福音を、私の福音として聴ける条件を、満たしえない貧しさがあるのです。

しかし、その私たちに向かってイエス様は、恐れなくていい、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしをキリストとされたのだ」わたしがあなたを解放すると言われたのです。私の条件ではありません。三位一体の神様の側で、救いの条件が満たされたのです。御父は御子を世に贈り、聖霊様によってマリアの胎に人として宿し、いま改めて聖霊様によって御子を救い主として世に現わし、世界をキリストによって救われるご決断を明らかにされました。十字架の主として世界に与えられたキリストが、全人類の貧しさを身に受けて、十字架に釘打たれ、裁きを負われ、責任を責任として完全に負われて、この木の上でわたしが自由を放棄するから、あなたは自由だ、わたしが死ぬから、あなたは生きろと言ってくださったら、私たちは、恵みによって自由なのです。神様の覚悟が罪人を救います。その神様を十字架以外のところでなきものにしようとする試みは挫折します。神様の恵みのご決断がなるのです。このキリストの恵みを信じれば良いのです。雨はもう注がれています。恵みの年はもう来たのです。