10/2/21朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書5:1-11、エゼキエル書34:11-12 「その力は命を救うため」

10/2/21朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書5:1-11、エゼキエル書34:11-12

「その力は命を救うため」

 

イエス様が湖のほとりに立っておられる。今使っている新共同訳は、その場面から、5章を描き始めました。何を思って立っておられたのでしょう。湖に映る朝日でも静かに見つめておられたのでしょうか。

実際にギリシャ語で書かれたもとの場面は、群衆の押し寄せる場面から始まります。前の口語訳に倣って訳し直すと、群集が神の言葉を聞こうとして押し寄せてきた。そして、イエス様は湖畔に立っておられた。あわやイエス様を湖に落っことすような勢いです。人々は求めていたのです。イエス様から語られる神の言葉を、まるで砂漠のオアシスに駆け込む人々のように、心渇いて求めてきました。別に奇跡を見たいのではないのです。好奇心を満たしたいのではありません。人生を満たしたいのです。できれば建て直したいのです。ここに立つならば揺るがない、神の言葉が欲しいのです。

人は神の言葉を聞きたいのです。いつもはかき消されているかも知れません。人の言葉が大き過ぎて、かき消されたり、惑わされたり、それであきらめて聞けなくなったり、聞きたくなくなることもあるでしょう。イソップ童話の狐のように、あれは酸っぱいブドウだと、自己防衛か、あるいは裏返しの自己満足か、神の言葉は私を満たさないと、決めてしまうこともまた少なくはないと思います。様々な障害に阻まれて、神の言葉が良い土地に落ちて実を結ぶことが少ないと、イエス様ご自身、嘆かれる言葉もあるのです。

それでも聞きたい。人間の根源的姿でしょう。迷い出た羊が不安なように、魚が新鮮な水を求めるように、神様が失われた人間を捜し求めて愛されるように、人は神の言葉を聞きたいのです。母の胎内で一人一人が命を与えられたそのときに、主が語られた故でしょうか。御言葉なくして命はありません。人はそのことを覚えてなくても、神様は覚えておられます。キリストが語られる神の言葉は、そのように命を目覚めさせます。人を神の子として生かすため、わたしはあなたと共にいると、命の言葉を語られるのです。

キリストの言葉を聞いている人々と共に、けれど特に神の言葉を聞きに来たのではない人々も、そこにいました。半ば仕方なくそこにいたとも言えるでしょうか。シモンたちです。後にペトロと呼ばれるようになるシモンは既にイエス様とは顔なじみです。前回の場面で、お姑さんを癒してもらいました。イエス様が只者でないことは知っています。ある程度の関係も持っています。他の人々とイエス様の関係よりも、もっと親しいくらいかもしれません。だからでしょうか。にもかかわらず、でしょうか。それ以上の関係は求めてないようにも思えます。私の人生の数頁に数行書き入れられるようにして、イエス様との係わりがあって、それは大切な頁でもあって、これからもイエス様がそのように、何回か登場することはあるだろうけど、まさかこの先の全ての頁が、イエス様で埋まっていくとは、しかも自分が本の主人公ではなくなるようにしてイエス様を「主」と呼んで愛し仕えていくようになるとは、シモンも思ってなかったでしょう。まったく予想外のことでした。でもだからこそ神様なのでしょう。神様が、シモンという本を造られたのです。その中に閉じ込められてはおらんのです。人は自分の考えや他人の思いに閉じ込められて束縛されても、神様はそうではありません。むしろそれ故に神様は、人間をそこから自由にされます。自由にしたいと願われます。それが私たちの本に書き込まれていく、神の言葉の力でもあります。

そのシモンに向かってイエス様は神の言葉を語られました。沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。まさかこの言葉が人生を変えるとは。シモンは不可能を知る人でした。常識があったとも言えるでしょうか。家族を養う必要もあります。自分が持っている責任の重さを知る大人だとも言えるでしょう。自分の体力の限界も知っている。それらを総合して考えるなら、イエス様のお言葉はシモンにとっては非常識です。

無論、イエス様から語られた神の言葉の、人間の常識を覆す非常識な力を知らんわけではありません。姑が高熱で死にかけたとき、イエス様が熱を叱ったら、熱が、はいと従って去ってしまった神の言葉の力を、忘れたわけではないでしょう。神の言葉には力がある。それは、罪と死に束縛された人間の、縄で縛られた常識を、まったく自由に打ち破る、死を打ち破る命の言葉だと、知らんわけではないのです。

でも「沖に漕ぎ出して…」という言葉を聞いても、それは神の言葉とは関係ないろうと、ここでイエス様が言いゆう分野は、宗教や神様とは関係ないろうと、自分で線引きをしたのでしょうか。そういう線引きはよくするのです。人によって違う線です。ここは私が主である、という分野、領域が、一人一人にあるのかもしれません。この分野は、と世間から教わるのでしょうか。例えば恋愛は個人の自由だと頼んでもないのに教わるように、ましてや神様が口を出す余地はないと。仮に、どうかあの人と結ばれるようにと祈りはしても、そこが宗教の線引きで、結婚や仕事や、どういう家庭を築くとか、確かに宗教に関わる領域はあるのだけれど、その他、こっち側で営んでいる生活に対しては、神の言葉は関係ないろうと、シモンも思っておったのでしょうか。俺は人を死からは救えないけど、魚をとるのは俺の分野やと。

でも、その自分が主である領分で、家族を養うのに必要な日毎の糧が取れんのです。シモンはそれを「苦労」と呼びます。夜通し苦労しましたが何も取れませんでした。心の疲れをも意味する言葉です。辛い思いをし、苦しい思いをした、それなのに報われなかったのですと、自分の無力さを言ったのでしょうか。それとも苛立って言ったのでしょうか。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、「沖に漕ぎ出して…」と言われたイエス様の言葉に、シモンは少なくとも、反応をしています。せざるを得なかったのでしょうか。宗教の分野ではないと思われるところ、自分の縄張りを荒らさないでくれと思いたくなるところに、神の言葉が、足を踏み入れてきたからです。人はそのような神の言葉に、反応をせざるを得んのでしょう。

あるいは他の反応の仕方もありえたでしょうか。例えば無視もその一つでしょう。近年では最も多い反応かも知れません。あるいは素直に、はい、わかりました、と言えたでしょうか。もちろん、言えたとも思います。けれど同時にこうも思います。もし、そんな素直な信仰があったなら、わざわざこんな奇跡をなさったでしょうか。必要なかったのではないでしょうか。どうして奇跡や、あるいは裁きや、その他どうしても神様と向き合わざるを得なくなるような、言わば私たちの心を呼び覚ますようなことを、どうして神様はなさるのでしょうか。そこに神様の深い憐れみが見えてきます。そうでもしないと神様を主とすることのない人間の頑なさを、主が思い量られての故であろうと思うのです。

そうされてまでも主なる神様に、私たちが真実に向き合う必要があればこそ、イエス様はまるで立ちすくむようにして、取れない網をうつむいて洗っているこの漁師たちを、立って見つめておられたのだと思うのです。湖にボーっと立っておられたのではありません。そこには、主の弟子となるべき者たちがおったのです。パンや魚だけによって生きるのではなく、既に力ある神の言葉を聞いて、これに生かされ始めておった者たちがおったのです。主はその者たちを見つめられ、彼らこそ、人間を取るべき漁師ではないのかと、じっと見つめておられたのです。

既に奇跡は起こっていました。知識も既にありました。彼らに必要なのは信仰でした。人生を動かすのは信仰です。新しい頁を切り開くのは信仰です。神の言葉を語られる聖なる神様にひれ伏す信仰です。そしてシモンはひれ伏しました。キリストが、シモンの取り仕切っていた領分に、足を踏み入れてきて下さって、そこでシモンと語られたからです。わたしはあなたの宗教の主ではない。わたしはあなたの命の主であるとシモンが神様に向き合えなかった、まさにその暗い領分で、主は愛するシモンと、全存在をかけて向き合われたのです。わたしはあなたにとって誰であるのか。わたしはあなたに命を与える、あなたの人生を満たす主であると、キリストは見つめて語りかけておられます。

そして、こう呼びかけて下さいました。恐れることはない。これも既に知っている知識でしょう。何度も聴いてきた神の言葉です。クリスマスに、恵みの道を切り開かれた、救い主を指し示す神の言葉です。暗い罪の世を恵みで照らす、キリストを下さった神の言葉です。恐れることはない。わたしはあなたと共にいる。そのためにわたしはここに来たのだと、私たちの救い主となるために、人としてお生まれ下さった十字架のイエス・キリストの言葉こそ、これを聞いたら私たちも生きられる、命を生かす言葉です。恐れることはないのです。神様は、救い主として来られたからです。

シモンが聞いたのも、まさにこの救い主イエス・キリストの言葉です。また、この曖昧で頑なですらあるこのシモンを代表とする、私たち教会全体に語られた言葉でもあります。恐れることはない。恐れや不安や弱さを抱えているそのあなたが、今度は神の言葉を語る側になるのだと、キリストは大胆な言葉を語られるのです。非常識な言葉でもあるでしょう。でもこの言葉こそ、本当にシモンの人生を変えてしまった言葉なのです。直訳は、恐れるな、たった今からあなたは人間を生かす人になる。シモンは、この神の言葉にかけたのです。恐れないことにしたのです。線引きをすることはもうやめにして、神様、あなたが線引きをして下さい。私の後ろに線を引いてください。もう後戻りはできんのです。この先の人生が、信仰によって生きる人生が、私の本当の命ですと、シモンはイエス様を信じたのです。そしてその信頼は決して裏切られることはなかったのです。キリストはシモンを神の子とされました。神の子としての苦労はあっても、そこには自由があるのです。永遠の愛があるのです。キリストに従う人生は裏切られることはありません。キリストに生かされてきた者でしか語り得ぬ命の言葉を、語り証しする人生へ、神様は招いておられます。神の言葉が切り開く、命の道へと進むのです。