10/2/28朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書5:12-16、エレミヤ書17:14 「神様が喜ばれるのは」

10/2/28朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書5:12-16、エレミヤ書17:14

「神様が喜ばれるのは」

 

イエス様がある町におられたときです。どの町かはわかりません。あるいは、どこの町でもよいのかもしれません。どこの町でも、どこの村でも起こりうる出来事が、そして起こって欲しいと願われる出来事が、イエス様と共に起こります。

そこには重い病をわずらった人がいました。重い皮膚病にかかった人だと言われます。違う言葉に訳された聖書をお持ちの方もあるかもしれません。これがどういう病であるか色々と議論がありまして、途中で訳を変えたのです。初期の版には、らい病と訳されていました。今で言うハンセン病。今では治療可能な病です。不治の病ではなくなりました。けれども、ここで言われているこの病というのは、必ずしもその病には限らないだろうと、重い皮膚病と今は訳されます。しかし、ここにあるもう一つの言葉も見過ごせません。これは深刻な病であったことが強調されます。全身そうだったと言うのです。直訳は、この病に満ちていた。そうなると、もはや見える部分だけに限らずに、その人間存在の全てにおいてとも言えるほどの、深刻な病が見えてきます。

そのような病を聖書は告げます。特定の病に限らずに、聖書に登場する病は、人間存在の根本を冒す根源的病の象徴として登場します。不治の病は特にそうです。神様によって癒されなければ癒されることのない不可能な病として、この病もまたここに現れます。人間存在の全域に渡って侵食し、人生を内から壊す、罪の象徴としてです。

けれど、病は決してそれだけで、単独で登場することはありません。キリストと共に登場します。この病から人間を自由にするため、神様が人となられて来られたからです。キリストによって癒されるべき、ただキリストによってのみ癒されうる病として、この病は、ここでキリストを指し示します。キリストによって明かにされ、そしてキリストを明らかにする病として。そして、この人もまた、そのように登場します。

何故か新共同訳ではしょっちゅう省かれる、見よ、という言葉がここにはあります。全身を病に冒された、この人を見なさいというのです。私たちが、目を逸らさずに見なければならない人として、この人はここに登場します。私たちが見つめなければならない人として、この人はここにおったのです。

でも最初から病んでおったわけではないでしょう。全身がそうだったというのでもなかったと思います。自分は病んでいる、という自覚を、中原中也の詩のように、汚(よご)れっちまった悲しみを、どこかで覚えたろうと思います。人は、そのような部分を隠します。最初は、小さな部分です。隠すのも比較的容易に隠せます。自分の清くないところを、人に見せることなどできません。でも段々と拡がってくるのです。隠し切れなくなってきます。昔、ベンハーという映画で、皮膚病にかかった母と妹が、必死で患部を隠そうと布で顔を覆っている悲しい場面がありました。見ないで、見ないで、と隠すのです。闇の中に逃げ込みます。でも、どんなに隠しても知っています。特に、この人はよく知っています。病は、私の全身に及んでいると。この人もほとんどを隠しておったと思います。両目だけ出しておったかもしれません。でも、その両目でも、見えない部分が私にはある。自分にさえ隠されて見えなくて、背中にできたおできのように、ある日鏡で見てゾッと気づく染みのように、自分に見えているものですら、全てではないのが事実です。

その私たちのすべての部分を、神様は見ておられます。でも犯罪を暴き出す名探偵のようにではありません。むしろ外科医のようにです。私は一時、将来の職として医者を考えたことがありました。が、臆病者で自分の怪我をしたところを見るのも怖いのに、人の血を見ることは到底できんとあきらめました。医者は本当に偉いと、心から尊敬をします。そして神様のことを思うのです。私たちの汚れたところを、悪趣味なホラー映画のように見ておられるのではないのです。私たちもまたそうであるように、できれば見たくもないだろうと思います。しかも愛する人の汚れです。聞きたくもない、見たくもない、そんなことなかったことにしてほしいと、耳をふさいで目をつぶり、アーと言っているような、そういうところで、でもじゃあ、誰がその病を癒して、その人を解放するのかというところで、神様は私たちの前に立たれるのです。わたしはあなたを愛していると、私たちを愛する造り主として、そして私たちを罪から癒される救い主として、あなたの罪は癒されると、目を逸らさずに見て下さいます。無論、神様は目を逸らす自由をもお持ちです。人間が神様の恵みから目を背ける自由を持っているよりも、もっと自由に、神様は醜い罪から目を背けられる自由をお持ちです。しかし、その自由を私たちのために、私たちを罪から救い出すために、ご自分の自由を、十字架の上で捨てられたのが、人となられた神様です。その神様が来られたのです。キリストがここに、来られたのです。

だからこの人は、キリストのもとに行きました。このキリストの内に神様を見ました。そしてひれ伏しているのです。ひれ伏さざるを得んのです。神様とはそういうお方です。また、ひれ伏すことのないままには見ることのできないのが神様だとも言えます。その神様は悲しみを知っておられます。その悲しみから人を自由にするため来られた神様です。その神様に向かって言うのです。主よ、御心なら、あなたは私を清くすることがおできになります。

御心なら。でも信じておったと思います。神様に押し付けるようにしてでなく、ひれ伏し、神様の自由を畏れながらも、それでもキリストを下さった神様の愛と憐れみを信じておったと思います。そしてキリストが来られたのは、まさしくそのためであったのです。人を罪の呪いから救うため、全部の罪から救うため、キリストは自らその呪いを引き受ける赦しの十字架を背負って来られたのです。私たちが気になる一部の罪とか、私たちの目に見えている罪だけを処理するためではありません。私たちという存在そのものを、まったく全て清くするため、神様は人としてお生まれになり、私たちの罪の受け皿となられました。キリストはそのような神様として、今この人の前におられます。この人を清くすることは他でもなく、この十字架のキリストの御心でした。

ならば今使っている新共同訳のように、この人の願いに対して、よろしい、と訳したのでは、この御心が見えなくなります。キリストの存在がぼやけます。明治の文語訳はこう訳しました。我がこころなり。名訳です。直訳は、わたしは望んでいる。わたしは喜んで決意する。そのように決意して来られた神様に、この人は出会っているのです。十字架の決意を持って来られた神様の自由の内に、病の清めを受けるのです。

その神様は、彼の膿んだ所に触れられる自由さえお持ちです。神様はその部分に触れて下さいます。暗い思いで、人に隠している部分です。膿みがたまって病んでいるところ、人には触らせたくないところです。医者だけが触って良いのです。キリストだけが触れられるのです。確かにあなたに汚れはあるけど、あなたは汚れてはないのだと、わたしの愛で清くなれと、その存在のすべてに触れられます。

そして病は去りました。医学的な言い方ではないでしょう。神学的な言い方です。そもそもこの罪という病と汚れは、この人の一部ではないと言うのです。まるで寄生虫かウイルスのように、切っても切り離せない、分離不可能で、私と一体化したかのように、罪は私たちの全身を蝕んで、私たちの存在全体を汚します。けれど、それでもその罪は本来あなた自身ではないのだと、あなたをあなたでなくすのが病であり罪であり、それは人間から去っていかないかんと言うのです。本当の自分探しというものへの神様からの回答は、それ故、罪から自由にされた私という存在です。それが本来の私たちであって、罪は、その本来を人間から奪い去る、根源的な非本来です。人間をその本来の姿から歪めて壊す非本来である罪は、この人から去らないかんのです。ならば人間は、どんなに罪を犯しても、どんなに神様に背いても、神様から離れ去ってはいかんのです。罪こそ、去っていくのです。なのに人がご自分から去っていくから、神様からどんどん遠く離れ去るから、神様のほうから来られたのです。キリストが私たちの救い主として来てくださったから、どんな人でもそのままでキリストのもとに行けるのです。

そして清められた人生が新たにここで始まります。しかし尚そこで見逃せないのは、この人が、きっと喜びの余りだろうとは思いますけど、キリストに逆らってしまうことです。厳しく命じられたのにです。この人を癒すのは御心でしたが、人間は御心を十字架抜きで罪抜きで曲解しやすい。そうやって御心から去っていくことがないようにとの罪を考慮された主の御心には、人間は逆らってしまうのです。悪意がなければということではないでしょう。悪意でなくても、我が意なのです。神様のご意志に逆らう我が意です。この人は御心の内に受け入れられて、全身清められる恵みを受けつつも、尚、神の言葉に逆らってしまう、私たち人間の悲しい姿をも、鏡に映しているのかも知れません。小さな反抗に思えます。でも次第に膨れ上がってくる一部です。そして、このような小さな反抗が膨れ上がって、キリストを十字架につけるのです。十字架で罪の全体が顕わになります。罪は神様に逆らうのです。恵みに逆らって叫ぶのです。十字架につけろ、地上から取り去れ。人間の願いと一致する限りにおいては受け入れられ、そうでなければ拒まれる神として、神様が十字架で裁かれます。そして、そのような私たちであればこそ、キリストはどんなに拒まれても私たちを拒まない神様の御心そのものとして、私たちのもとに現れたのです。十字架で現して下さったのです。その罪は、あなた本来の姿ではない。父よ、彼らを赦して下さい。何をしているかわからないのです。血を流して祈って下さいました。神様に逆らう罪の全体を、キリストは血を流されて洗い流して、私たちの罪を清めて救われます。これが神様の御心です。その愛の御心にひれ伏してキリストに従う信仰を、主は、我がこころなりと喜ばれます。あのとき祈っておられたように、主は今も、父に祈って下さっているのです。