20/3/1受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書13章28-31節、イザヤ書40章6-8節 「神様の言葉は消えない」

20/3/1受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書13章28-31節、イザヤ書40章6-8節

「神様の言葉は消えない」

滅びない。過ぎ去らない、という言葉です。来たと思ったら、過ぎ去って、え、何やったが?という、あてにならない人の言葉とは違って、御言葉は、なると言われたらなるし、あると言われたら、あるのです。この時代、あるいはこの世は過ぎ去ります。先週は、きっとあると思い疑わなかった授業も、過ぎ去るし、同じように私たちが、きっと今日も明日も続くだろうと思っている時代、この世は、私たちの思い通りにはなりません。この時代、この世がまだ続いているのは、主が御言葉で言われたことが、まだ全部起こっていないから、だから、まだ続いているのであって、なら!です。なら、私たちはどう生きるべきなのか。それが今朝の御言葉です。御言葉に生きよと私たちに向き合っておられる、主の御言葉に頼って生きるのです。

言い換えれば、御言葉に頼らなかったら、過ぎ去る世間の状況や自分に、ぶんぶん振り回されてしまう。あるいは、御言葉に頼らない自分の判断に振り回されるとも言えるでしょうか。トイレットペーパーが無くなるという状況一つにしても、どうしたら振り回されない、落ち着いた生き方ができるか。本当になすべき生き方ができるか。決して過ぎ去ることのない、主の御言葉に頼る生き方が、それです。

私たちは、どれがイチジクの木かはわからなくても、夏が近づくのは自ずとわかると思います。言われなくてもわかるということです。なら同じように、既にイエス様が13章で教えて来られた御言葉から、では、私たちは今や戸口を通して向き合うことのできるイエス様を前に、どう生きるのか。それは自ずとわかるのです。慌てなくてもよいし、惑わされなくてもよい。でも、呑気にしてはいけない。生きている者と死んだ者とを裁かれるキリストに、御言葉の通り向き合って、主の僕として、人々に救いを証しする言わば緊張感をもって御言葉に生きるのです。

けれど往々にして御言葉に生き損ね、惑わされてしまうのは、何故でしょうか。わかっているはずなのに、御言葉に生き損ね、むしろ過ぎ去る人間の思いに惑わされ、振り回されるのは何故なのでしょう。それは今回の騒ぎの只中で、改めて思わされましたが、やはり自分は大丈夫だという根拠なき自信、あるいは、だって大丈夫ちやという根拠なき安心に、頼ってしまっているからじゃないでしょうか。

例えば自分はウイルスに感染してないと思うと、その自覚を頼りに、消毒を怠ったりするのだと思います。でも、自覚がなくて隠されていることこそ危険だというのは、もし同じことを他人がしていたり、咳をした人がマスクをしてないと敵意さえ持つほど、危険だというのは悟っているのだと思うのです。自分のことだと悟ってないだけで。

それは罪と裁きの自覚こそ、そうなのでしょう。自分はすぐには死なないと思うことも、死んでも裁きは大丈夫だと思うことも。キリスト者は、確かに死んでも大丈夫なのですけど、それが何故そうなのかの根拠が問われるのです。何を根拠に、死んでも大丈夫なのか。十字架と復活の主の御言葉が「わたしを信じる者は死んでも生きる」と約束してくれているからか。それとも、単に私は大丈夫だという自覚の故か。そこでイエス様はハッキリ問われるのです。過ぎ去るのはどっちかと。

主は言われます。「わたしの言葉は決して滅びない」。過ぎ去らない!だから頼るのです。人生と細やかな生活の一つ一つの土台となり得る、信仰と生活との誤りのない基準。この御言葉の上にのみ、私たちの家は建つからです。

この世は滅びます。でも、その世と一緒に誰も滅んでほしくないので主は今朝の御言葉で、こう言われたのです。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」

みな起こるまでは。それまでは、滅びない。だから、これらのことが何であるかを13章前半で言われたのですが、その内容を簡潔に言えばこうです。苦難は起こるけれど、惑わされないこと。その苦難の中で、主の救いをこそ証しすることが、私たちの選びであること。そのことに心を決めること。それが過ぎ去らない御言葉です。その上に滅びない家を建てることのできる唯一の土台です。そして世界に福音が伝えられ、それから、天地は滅びます。この順です。困難はある。でもその中で、福音が伝えられる。それまでは終わりは来ない。どれほど、救いを主が望まれているか、どれほど福音宣教の務めが教会に託されているかが、よくわかる御言葉です。

それまで世は滅びない。滅びてほしくないのです。だから主が十字架で、身代わりに滅びに来て下さったのです。ご自分の命を犠牲にして、私たちを救いに来て下さった。誰にも滅びてほしくないから。その神様の御言葉を信じてほしい。それが今朝の御言葉のメッセージです。

過ぎ去る言葉だらけで混乱する世にあっても、私たちは誰の話を信じたらよいのかと、惑わされなくてもよいのです。そしてその世の中で、過ぎ去ってしまう生き方もしなくて良いのです。無論、無風ではありえません。同じ時代の風に吹かれて、同じ苦しみの中で過ごします。だけど突然に見える大風に吹かれて、過ぎ去ることだらけの世界の只中で、過ぎ去らない生き方、流されない生き方をして生きられる、またその中で私たちが死んだとしても大丈夫な理由があるのです。大丈夫な根拠、決して流されない大拠点があるからです。その救いの岩である、十字架の主の御言葉に生きるのです

そして、その人生が終ったら、死んでも、次の瞬間、目が開いたら、目の前にイエス様がいて言って下さいます。おはよう、わたしの子よと言ってくださる。この復活の戸口の前で、今日も歩んで行くのです。