13/12/8待降節第二主日礼拝説教@高知東教会 イザヤ書11章1-5節、コリントの信徒への手紙二5章11-15節 「見えない真実が見たい」

13/12/8待降節第二主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書11章1-5節、コリントの信徒への手紙二5章11-15節

「見えない真実が見たい」

 

クリスマスイヴ燭火礼拝で読まれる御言葉を、この待降節は一つずつ説き明かしております。その二回目です。先に歌いました讃美歌もこの御言葉から取られたのだなということを皆さんも思われつつ聴かれたでしょうか。クリスマスの祝いを準備しながら、この御言葉を共に聴くことに、どんな意味があるのか、改めて噛みしめたいと願います。

エッサイの株、また下の段10節や先ほどの讃美歌ではエッサイの根とも言われます。これは救い主イエス様の誕生を預言した呼び名でして、エッサイというのは人の名前です。イスラエルの王ダビデのお父さんがこのエッサイという人でして、要するにダビデの子孫、神様に選ばれた王の直系としてお生まれになられる方が、エッサイの株からお生まれになるという預言です。

何だ随分ややこしい言い回しをするなと思われるかもしれませんが、このややこしさにも、やはり前回と同じで時代的背景があります。その背景が、また私たちにも深く関係するものですので、少し背景を説明します。預言者イザヤがこの預言を語ったのは、おそらく先週申しました北イスラエルに強大なアッシリア帝国が攻め込んできて、首都サマリアが囲まれていた頃か、既に攻め落とされて北イスラエル王国が滅亡し、隣国にして兄弟国の南ユダ王国が、あわわ次は俺たちの番だと政治的、情勢的に極度の不安にあった時期だと思われます。今の私たちの国も、国会を延長してすったもんだの茶番劇をやっておるように思えるのですけど、隣国との政治的緊迫状況や、やはり大きなのは原発の危機管理を国として責任を持って治められない管理することができんので、言わば戦争末期、本当は壊滅的な状態なのに勝利勝利!と真実を隠蔽して情報操作して、日本は大丈夫だから頑張りなさいと国民を管理しておった、そんなキナ臭いことかなと、どうしても思わされるのは反骨の異骨相気質故でしょうか(笑)。国民をわやにすなという気持ちになるのですが、今日のクリスマスの御言葉もまた、それと無関係ではありません。

エッサイの株、エッサイの根の説き明かしをしているのですが、これは切り株です。切られたのです。もっとハッキリ言えばもともとの木が切り倒されて株だけ残った。丁度、この新共同訳聖書は今日の11章の前に一行だけ前の10章の最後が記されていて、「切り倒される」とある。このイメージ。主なる神様に逆らい続けたイスラエルに対して、神様がアッシリアを裁きの斧として振り上げて、罪の裁きとして王国を切り倒されたというイメージです。日本の国は大丈夫でしょうか。教会はどうでしょうか。あるいは裁きのイメージとして火で焼かれるという表現もイザヤは用います。前に見た映画でワイン造りのための葡萄を栽培する農家の映画ですけど、畑が火事で一気に焼き尽くされてしまう。ああ、もうこれで全部終わってしまったと人々は嘆くのですけど、焼け跡の中から、一番古い葡萄の木の根っこが見つかる。木自体はもう焼けて見るも無残で、根があったち、これがどうなるか、もうどうしようもない、終わりよえ、終わりと思うんですけど、その燃えさしの株から芽が萌え出で、ああこれでやり直せるっていう希望が家族に与えられるのです。今日の御言葉をモチーフにしたのかもしれません。

エッサイの株、エッサイの根というのは、もう人間の目から見たら、神様の裁きを受けて、もう終わった、もうダメだ終わりだという人間の目から見たら不可能なところに、いや、神様に終わりはないと、神様の裁きを受けた結果こうなったのであっても、そこで神様は、いや終わりじゃない、そこにわたしは救い主を与えて、あなたが新しくやり直すことができるようにする。あなたをわたしへと正しく導くあなたの王を、正義と真実の王を与えようと、救い主、王の誕生を約束された。それが今日の御言葉の預言です。

そしてこの御言葉で大事なのは、救い主によって与えられる救いが、安易な天国の保証ではないという点です。救い主は人として、エッサイの根から人としてお生まれ下さった方として、私たちを神様の裁きから救い出して下さるのであって、単に天の裁きの座におる神が、えいえい赦いて天国入れちゃうきと救うのではない。無論、赦されなければ誰も天国に入ることはできません。人間は自分の目に見えるところだけで、えいえい、これで私は天国に行けるはずと自分の正しさを見ていると御言葉は語り、けんどそれは自分のことだけじゃいか、自分で自分を裁きゆうだけで神様の裁きはどうなった、神様の正義はどうなったと問うのです。神様の正義と裁きの光に照らされたなら、誰も正しいとは認められない。聖なる神様の前に立ちえないのが人間の罪です。だから罪は赦されなければならないのですけど、しかし、何を根拠に赦されるのか。それが今日の御言葉の語る救いの急所です。切り倒されたエッサイの根から救い主が与えられる。そのことで保証されるのは、この救いが完全に正義であるという保証です。更に丁寧に説いていきます。

今問いましたように、罪は赦されなければならないのですけど、何を根拠に赦されるのか。どういう根拠で私たちは人を赦しますか。無論、どうしてもそこで必要なのは憐れみでしょう。でないと赦しても対立したままということもあり得ると思います。それで何の赦しなのかということになりかねない。じゃあ憐れみがあって、えいえい、もうえいきと神様が憐れみによって人を赦したら、それでえいか。その救いは正しい正義を貫いているか。もしそこでその人の罪によって苦しんだ被害者を正しく憐れんでいれば、です。罪は人と神様に苦しみを与えます。人の罪に苦しめられたことのない方、ここにおられますでしょうか。おらんと思います。神様も罪の被害者です。加害者が、何?それっぱあ我慢をせえと言うことほど恐ろしい加害者の正義はありません。戦争のごとに繰り返されますが、加害者の正義は必ず裁かれます。それが被害者に対する神様の正義でもあります。キリストの救いは被害者に対する正義を保証するのです。無論、神様として自らも苦しめられています。十字架そのものがそうだとも言えますし、私たちはそういう意味では日々神様を十字架につけては、お前なんかいらんと言い続けている毎日だとさえ言い得るのです。その罪と苦しみを神様が我慢され、えい、赦すと言われるイメージなら、受け入れやすいのかもしれません。事実そうだとも言えるのですけど、神様は決して、だからおんしも我慢せえ、わたしも被害者だけど我慢しゆうがやきという上から目線で被害者仲間ぶって、罪に苦しめられている人々に泣き寝入りを強要することはない。正義を押し付け強要するのは、4節で語られる「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」方の正義ではありません。エッサイの根から人としてお生まれ下さった裁き主は、加害者の正義を罪として裁かれ、正しい裁きを執行なさる救い主です。それは福音書に見られるイエス様の歩みの内につぶさに認められる正義でもあります。

イエス様は人としてダビデの子、正統な王の直系として生まれながら偉そうにされたことは一度もなく、いつも弱い人と共におられました。王の都エルサレム入城の際も、皆から王なる救い主だ、あの預言を成就する方だと騒がれる歓声の中、軍馬ではなくロバの子にまたがって都に上り、都が見えた時には、その都が神様に逆らい続けた裁きとして、やがて神様の斧を振るわれて滅亡する様を思われて、ボロボロと大泣きに泣かれた王です。変な王です。目に見えるところによっては強く見えない、弱い王。王様万歳と都に上る時には祝われたのに、わずか5日で、嘘の王やった、嘘の救い主やった、そんな弱い王は嘘や、十字架につけろ、お前らあいらん、お前らあダビデの子じゃない、嘘つきと叫ばれて捨てられる王が、ここでダビデの子と呼ばれる代わりに、ベツレヘムの羊飼いエッサイの根から生まれ育った人として歌われますクリスマスの主、人となられた弱い神様です。

今日の御言葉では、その弱い神様がおっしゃるのです。そのわたしが裁く。全ての加害者の腐敗した正義に対して、神様の完全な正義の裁きを行うと。全ての加害者に、あなたは死ななければならない罪を犯したと、この唇から宣告する裁きを、わたしは行うと預言されます。それはもっともな正義です。救い主は、全ての犯された罪による悲惨の故に、どうして神様はこの罪を見過ごされるのかという涙の故に、いや神なんていないんだろうと呪いたくなるような苦しみの故に、だからわたしは裁くと、罪故の悲しみをないがしろにはしないと、正義の斧を振り上げられます。この正義の側面をないがしろにする救いや赦しは、罪に泣いている人を無理やり犠牲にして、お前が我慢したらこの人は赦されるきという不正の赦しであり、それは神様の赦しではありません。聖書全体が証しする神様は正義の斧を振り上げる方です。そして聖書全体が証しするその斧は、その正義の裁きをなされる方ご自身に向かって天から振り降ろされ、この裁き主は、死ななければならない罪人の死を、救い主として死なれるのです。それが正義をないがしろにしない、泣かされる人の叫びをないがしろにされない、裁き主による赦しの救いです。人間は裁きを根拠に赦されます。クリスマスに鳴る赦しの鐘の音は、同時に裁きのベルでありつつ、その裁きが人間の代表としてお生まれ下さった神様に向かって振り下ろされて、エッサイの根から生まれた方の犠牲によって人は赦され救われるのだという、福音として鳴り響くのです。

切り倒されて、もうダメだと思われた根から生え出られる人として、主が生まれた。神様の裁きは確かにあるが、裁かれて終わりでは決してない。裁きを超え出る救いがある。エッサイの根から、御子を人として生まれさせて下さった神様の憐れみ、正義の裁きを完全に満たされて、その上で赦して人を救われる憐れみがあるのだと、この預言の御言葉は告げるのです。これがクリスマスの救いのメッセージです。

私たちがクリスマスの主を信じお祝いするというのは、ならば神様の裁きを信じるということでもあります。暗い世相で、力ある者が我が物顔で意見をまかり通らせる罪の世にあっても、尚そこで希望を捨てなくて良いのです。流されず、正義に生きて良いのです。キリストが裁いて下さいます。その裁きによって、神様の救いはなるのです。