13/7/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章25節、ゼカリヤ書8章14-17節 「家族に嘘はいらない」

13/7/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章25節、ゼカリヤ書8章14-17節

「家族に嘘はいらない」

 

互いに真実を語り合う。お互い顔を見合わせて、まあ年取ったねえと言うんでしょうか(笑)。それは事実かもしれませんが、事実は言わば、上っ面だけで、その深みには真理があります。真実と訳したので事実みたいになりましたが、これは21節に語られた「真理がイエス様の内にある通りに学んだはず」の、真理です。主によって救いが私たちの真理となった、その互いの真理を、教会では互いに語り合いましょう。つまり具体的な教会形成を言うのです。のっけに「だから、偽りを捨て」と、だからと言うのは、これが21節からの続きだからです。真理を学んだのだから、だから、イエス様から教わった互いの真理を語り合おうと。

例えば、年取った事実の深みにも、キリストの真理がある。コリントの信徒への手紙二4章16節はこう語ります。「たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」これがイエス様に結ばれている私たちの真理です。だから落胆しなくてもよいのです。むしろ御国を来らせ給えと、私たちは祈っている。それが真理です。いや~そこまで私は信仰が強くないので、それがピンときませんと思うところで、ええ、だからイエス様が共にいて下さり、そのイエス様が、その古い人、古い考え方はもう脱ぎ捨てて、キリストの思いによって心と思いを新たにされて、神の形に造られた新しい人、キリストの考え方、態度、生き方に着替えなさい、わたしについてきなさいと、恵みへと招き続けて下さっている。それが真理です。

そういう意味では、こう言い換えてもよい。恵みの御言葉を互いに語り合いなさい。互いに説教しなさいと。無論、お説教するのではありません。おんしゃ罪人ぞ。何、おんしゃこそ罪人よ。それは事実ではあっても真理ではないからです。態度が、真理じゃない。真理はイエス様によって学んだはずです。私たちの罪は赦された。キリストが背負って下さった。だからキリストに一緒についていこうじゃか。ありがたいねゃ新しくなれるらあて。これがイエス様の内にある真理です。

ん~、それ難しいと思われるなら、だからでしょう。御言葉は本当に丁寧です。だから偽りを捨て、と先ず言われる。裁き合う生き方は嘘の生き方だからです。まるでちゃんとやらんと愛してもらう価値がないような人の見方は、嘘だから、そこではイエス様が抜きになっちゅうき、そんな嘘の考えは捨てろと言われる。嘘とか偽りというのは、単に事実に反することではなく、聖書ではサタンが偽りの父と呼ばれますけど、嘘とは真理に反して語ること、イエス様抜きで何か一つでも成り立つかのように、イエス様抜きで語り得るかのようにして、真理を抜きにして語ることです。だから、先に言いましたように、ただ年取ったというのは嘘です。そこに悲しみがないと言っても嘘でしょう。苦しみや悲しみや悩みがある。永遠の御子はそれらを引き受け、人の代表イエス様となられ、悲しみの人、十字架を前に悩む人、苦しむ人となられたのですから、聖書には老いの悲しみが語られますから、それを抜きにするのもまた嘘でしょう。ただそこでなお、死の悲しみに飲み込まれなくてもよいという福音が、キリストに結ばれて教えられた私たちの真理なのです。抽象的な一般の真理とかじゃありません。真理は非常に具体的で、私に深く関わる私のいのちの真理です。私のいのちをキリストが負って下さって、私のいのちとなって下さった私の救いの真理です。

またそれは同時に、私たちの真理でもあります。私の真理が語られるところで、私たちの真理が語られないのも、また嘘だからです。だからここでは隣人が語られ、しかも互いに体の一部である隣人が語られる。そう、教会の兄弟姉妹のことです。それぞれがキリストの体の部分部分である教会の家族を、ここでは隣人と言う。それは先に読みました旧約のゼカリヤ書が、神の民、神の家族の生き方を語りつつ、それを隣人と呼んだのを引用したからです。だからこれまた一般的な隣人ではありません。キリスト者として隣人愛を語りながら、教会の兄弟姉妹を愛するのは、いや~ちょっと(笑)ではなくて、最初から教会形成が主題なのです。それをどう具体的にやるかという話が、これです。嘘は捨てて、イエス様に結ばれて学んだ真理を互いに語り合いなさい。だって私たちは一つの体の部分部分なのだから、一つの体である真理を互いに語り合うことで、また4章3節に戻りますけど、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つ。人間が決して造りも壊せもしない、私たちをキリストに結ばれて救われる聖霊様によって造られたキリストの体の一致、一つの体であることを、保つように努めなさい、熱心に全力を挙げて努めなさい。その保つ努力の具体化がこれです。互いにキリストの真理を語り合う。例えばコリントの信徒への手紙一12章で、こう譬えられる。目が手に向かって、この体にあなたは必要ないとは言えない。どうして言えるか。もしそんな風に言う人、思う人が仮におっても、その人は嘘を言いゆうのです。何故なら、教会、キリストの体には、あなたが必要だからです。もし誰かが私はここで必要じゃないと思うなら、それは嘘です。キリストにある真理は、あなたは必要だ。だってキリストがあなたを、ご自分の聖なる御体に結ばれて、あなたはここに必要だ、ここであなたに役割もまた与える、その任務を誠実に果たしなさい、よろしく頼むとキリストが召して下さったからです。

だから、私たちが互いに真理を語るというのは、あなたはキリストに召されていますと、互いに召しを語り合うのです。キリストが私たちを召して下さったと、私にはあなたが必要ですと、互いに必要を言いあうのです。ここに必要じゃない人はいません。何度でも言います。教会にはあなたが必要です。おべっかじゃない。人手が足らんからでもない。これが私たちの真理だからです。キリストに代わって申します。あなたが教会には必要です。

そう、たとえ老いて礼拝に出席できんなってもです。嘘の思いに汚染された人間の思いを遥かに超えたキリストの思いの内にあって、多くの意味で、歳を重ねられた家族が教会に必要です。キリストが全ての人々の救い主であることを証しするためにも、また敢えてそういう言葉遣いをしますが、教会が断じて動ける人、できる人の集団ではないことを証しして、嘘は嘘と捨て、キリストの愛の真理を証しするために、教会には高齢の兄弟姉妹が必要です。もっともっと言いたいのですけど、ここで最も大きな必要の一つを証ししますと、キリストの真理が証しされる、最も大きな証しの一つは、キリストが死に勝利された真理の証しです。誰もが死にます。それは事実ではあっても只の一般的な真理であって、それを言うだけならキリストは要りません。要らん?本当でしょうか。私たちは知っています。キリストが要るのです。必要なのです。だから教会は死の看取りをものすごく大切にしてきたのです。数日前も私が協力牧師をしている教会の老信徒の病床訪問をしました際、姉妹が病故というより、自分が病人であることの悲しみを嘆かれていました。そこで私は牧者として、キリストの愛するこの羊の慰めを主から託された牧者として、~さん、苦しいですね、悲しいですね、でもその悲しみも苦しみも、そんなに遠くなく終わりを迎えて、例えすぐじゃなくても決して遠くないうちに、キリストの全き平安と復活の喜びに全て変わりますと語って、先日天に召された南国教会の姉妹の証しを語りました。障害を負われつつもキリストに頼り、キリストの真理を我が身の真理とされて穏やかに召された姉妹の証しをしましたら、悲しみの表情が変わられました。自分の悲しみに閉じ込められておった表情が、神様の御前に立つ真剣な表情に変わられました。そして言語障害があって話ができないのですけど、私の手をぎゅっと握られました。しがみつくようにして、まるで姉妹が今キリストご自身に向き合って、よろしくお願いしますと、すがられるような思いが伝わってきて、一緒に祈りを捧げました。

教会は、死について曖昧にせんのです。死の備えをせないかんと語る人に、死ぬとか言わんといて下さいとは言わんのです。死をそのようにキリストから学んではないからです。私たちが聴いてきたキリストにある死の真理は、キリストが私たちの死を全部飲み干され、死はキリストの裁きと死によって消化され、裁きの死としての呪いはキリストの十字架で引き受けられて、死はキリストの勝利に飲み込まれてしまった。父がその勝利の宣言としてキリストを死から復活させられたとき、死はもはや死んだ死として、赦しの勝利に飲み込まれて死んだ死として、力を失った死とされた。死はキリストの恵みの勝利に、既に飲み込まれてしまったのだと、教会は高らかに語り続けてきたのです。それが私たちがキリストについて聴き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエス様の内にある通りに学んできた、主イエス・キリストの救いの真理です。

だから、私たちはこの真理を、私たちとあまり関わりのない一般的な真理とは決してせず、あるいは今までそうやってきた、キリストを知る前の、以前のような生き方、考え方、古い人はもう脱ぎ捨てて、それは私たちに対する嘘であるからと、嘘は脱ぎ捨て、古い人は脱ぎ捨てて、イエス様、あなたこそ私の真理です、私の真理として私の心を私の体を死にゆく身をさえ、あなたの霊によって新しくして造り変えて下さい、いのちの根底から新たにされて、復活の希望を身に着けて、キリストに着替えて歩ませて下さいと、私たちは祈って歩んでいけるのです。復活の門をくぐって永遠の喜びに至る道を、祈りつつ共に歩めるのです。

そしてこの希望の真理を、自分の内だけに秘めないで、互いに語り合うのです。復活への招き、キリストの招きに、応えて一緒に歩みましょうと、嘘の生き方は捨てましょう、嘘の考え方は脱ぎ捨てましょうと、キリストの恵みの生き方を語り、証しする。そこに自然と伝道もなされます。老いゆく身に真実に寄り添われるキリストの真理が、目に見えて説教されていくのです。この道は、キリストが召された道だからです。その召しに、はいと言って歩んでいくのです。