13/7/21朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章26節、詩編4篇 「怒りから解放される」

13/7/21朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章26節、詩編4篇

「怒りから解放される」

 

「怒ることがあっても」という訳を、「腹を立てても頭に来ても、罪に走ってはならない」と言い換えたら、もっと身近に感じるでしょうか。今日選挙ですけど、何でそんなこと平気で言うろうとか、腹が立って、悪口を人に聞かせたり。車の鍵がないと大声をあげたり。イライラして家族にあたったり、説教準備しながら、私、罪ばっかり犯しゆうと悔い改めておりましたが、じゃあ、そこで御言葉は何と言うのでしょうか。神様による解決があるのです。人間だものでは終わらない。それどころでなく悪魔が出てきます。直訳は罪の告発者、悪口を言う者、吊し上げる者。更に直訳すると、投げつけて貫く者。グサッとくる言葉を人に投げつけて、グサッどころか心に穴を開けてしまう者。こいつをあなたの味方につけるな。あなたの内に、そいつの居場所を設けるな。ずっと腹を立て続けて、問題を自分で抱えちょくというのは、それは自分だけでやりゆうのじゃないと言うのです。それは悪魔が味方の場所におって、人を裁く私をこそ肯定して、そうそうあいつが悪い、世間が悪い、神が悪いと。あの時、アダムとエバに嘘をついてそそのかした時のように、あなたが神のようになって罪に堕ちるのを待っているだけだ。怒り続け裁き続ける者は、悪魔によって神のようにされてしまう。いや、嘘の神にされてしまう。だって私たちを造られた神様は、その裁きをご自分で引き受けて死なれる、十字架の裁き主だから、あなたの罪を引き受けて死なれた神様だから、その神様の十字架から離れた裁き怒りは、私たちを神様から引き離そうとする悪魔の居場所になる。だから怒りを自分の内にとどめて悪魔の居場所にしてはならんと告げるのです。

じゃあ怒りをどうしたらよいか。それを告発者、悪魔の居場所にするのではなく、その怒りを神様の前に差し出して、今読みました詩篇で、裁きも自分の正しさも全部、神様の御前に持っていって祈ったように、父よ、正義をお与えください、私を憐れんで下さいと祈る。怒りを神様の御前に置いて、どうかこの怒りに、キリストの十字架を、あなたの裁きを、あなたの御国を来たらせたまえと、怒る自分自身をも神様の前に置くのです。それ以外に解決があるでしょうか。怒りを人間は持てあますのです。手に負えんところがあります。だからって放置しておくと、悪魔がそこを足がかりにして、それで家庭が壊されたり、教会さえ壊される。自分自身も壊れていく。で悪魔が笑っている。そうした悲惨があることを聖書は赤裸々に語るのです。怒りは怒りだけでは終わらずに、罪へと結びついていくのだと。

アダムとエバの息子たちに起こった悲惨がそうでした。聖書の語る第二番目の罪の悲惨は、実に怒りによって引き起こされます。創世記4章です。カインと弟アベルが主に献げ物を捧げるのですけど、主はカインの献げ物に目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。そこで主がカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」正しさがどこでわかるかと言うと、主は、わたしに向かって顔を上げるか伏せるかでわかると言われるのです。カインの献げ物を捧げる態度に問題があったかどうかは、聖書はハッキリ言いません。よく推測されますけど、ケチったとか。それはここでは問われない。ここでの主題は怒りなのです。神様がハッキリ私たちに問うのは、怒りが正しい怒りなら、神様どうしてですかと顔を神様に向かって上げられる。すなわち神様との関係の正しさによって、聖書は怒りを問うのです。何か腹を立てるとき、そこであなたはわたしに顔を向けなさいと主は言われる。それがあなたの正しさだと。

人が怒るのは、だいたい自分の思い通りにならんときです。そうなって当然のことが、そうならん時に腹が立つ。それは正しくないと憤る。怒りとは、正義が踏みにじられたときの感情的判断とも言えます。正義でなく悪が行われていると判断し、そこで悪を裁き正義を執行する力と結びついているのが怒りですから、聖書では神様の裁きを神の怒りとも呼ぶのです。それが怒りであるのなら、その正しさを、じゃあ人はどこでこれは正義の怒りだと認め得るのか。今でなかったら世の終わりに、全てをご自分の正義によって裁かれる神様に向かって顔を上げ、主よ、私自身、あなたから裁かれる者でありますけれど、このことに関してはどうなのでしょうか、これはどうしたらよいのでしょうか、私はあなたの正義を行いたいのですと、神様に顔を上げて祈り礼拝するときに、怒りを自分で解決せんでもよくなるのです。そもそも解決できんのです。それを自分でやろうとするとき、カインは腹の立つ弟アベルを殺すという罪によって解決しようとした。だから御言葉は命じます。怒っても罪を犯してはならない。早急に、自分では解決できないその怒りの原因を神様の前に持って行き、顔を神様に向けて祈って、まことの裁き主である神様の名を呼んで、十字架でその怒りの原因も、私たちの中に住む罪の衝動も、即ち罪を犯してでも自分の正しさを貫こうとする傾向をも、そのために御子を十字架で死なせた天の父に取り扱ってもらうのです。その神様の御名を呼ぶのです。天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ、父よ、私たちの父として、私たちを憐れんで下さいと祈り、そこにこそ留まる。怒りの中には座り込まずに、父の憐れみの内にこそとどまる。そこでのみ、私たちは私たちのすきを狙う悪魔、いつまでも罪をつつき、怒りをそそのかす告発者とも戦い得ます。父の憐れみによってのみです。

罪と結びつきやすい人間の怒りは、私は正しいんだと、自分を守ろうとする自己防衛の傾向がありますが、自分を守らない怒りもあります。それがイエス様の怒りです。自分のために怒らないから、怒り続けない怒りとも言えます。怒りの問題においては、この怒りが24節の新しい人です。自分のための怒りは脱ぎ捨てて、父よ、と父の前に出て心の霊を新たにされて、そして3つ目がこれです。キリストの怒りに着替える。キリストのように怒り、そしてそれ故に怒り続けない。マルコによる福音書3章1節以下、新約65頁をお開き下さい。「…」。イエス様は怒られます。詳しく説き明かす暇はありませんが、イエス様を訴えるために、要するに、ほら見ろ、私は正しいと言うために、ファリサイ派の人々は礼拝に来た。父の御名をあがめる礼拝の只中で、その父の憐れみの心は脱ぎ捨てたかのように、自分の正しさを守るために黙っておった。主の招きに、はいと応えずに、黙っておった。それに対してイエス様が怒られて、どうしてそうなのかとじっと一人一人見つめて、なお招かれて、彼らの頑なな心を悲しまれた。それがイエス様の怒りです。イエス様の怒りは、罪で心が頑なになって、自分自分で凝り固まっている者たちへの悲しみと結びついている怒りです。ご自分に、また隣人に罪を犯す者たちへの悲しみと一緒になった怒り。それがイエス様を十字架に向かわせます。腹が立つ人々のために祈らせます。腹が立つだけではないからです。彼らの心の頑なさを思ったら、はらわたがわななき、悲しみが込み上げ、父よ、彼らを憐れんで下さいと祈らずにはおれん悲しみがあるからです。その怒りは、主と反対にずっとおし黙ったままイエス様への殺意を固めていくファリサイ派の怒りとは、さながら光と影のように対照的です。黙っている怒りは罪と結びつきます。無論だからってところ構わずぶちまける怒りも罪ですから(笑)、それを父の御前に差し出すのです。悪魔を味方になんかつけんのです。憐れみたまえと祈るのです。父よ、あなたが必要です!イエス様の十字架が必要です!聖霊様、私を新しく造り変えて下さい、私はこのままではいかんのですと、主の憐れみに自らを差し出して、なおそこで正しい怒りがあるのなら、イエス様が一緒に怒って下さる愛故の怒りがあるのなら、一緒に悲しめばよいのです。30節では聖霊様も、罪に悲しまれる助け主です。どうしてこんな罪があるのですかと、父よ、この罪の只中に、あなたの裁きを与えて下さい、御子の十字架の解決を与えて下さいと、聖霊様と共にうめきながら祈ればよいのです。それがキリストの怒りに着替えるという意味です。それは罪への悲しみを伴う怒りです。怒りが悲しみに飲み込まれるほど怒りが悲しみに溶け混ざり、ついには十字架の上に引っ張り上げられ、キリストの執り成しの思いに飲み込まれ、十字架につけられたキリストの思いへと、怒りが変革されるのです。救いの求めになるのです。

これは無数のキリスト者の証しです。私もまた自分の知らぬ悲しみをただ押し付けてはないつもりです。悲しみは、それが喜びに変わるまで悲しみであり続け、綺麗な悲しみなどありません。綺麗事の悲しみなどありません。聖霊様を悲しませてはいかんのです。でも悲しみがここになかったら、怒りの対象となる者を滅ぼす怒りの厳しさがあればこそ、神様が悲しまれるのです。どうしようもない罪のため、十字架を、私たちの解決とされたのです。厳しい言葉を用いますが、いなくなってほしいと思うほど怒りの対象となっている人を、そんな簡単に執り成すことはできんと思います。主の前にそれこそ黙ってしまう苦しみがあるでしょう。でもそこで同時に、そんなにも私たちを苦しませる罪そのものが滅びるように、こんな目に合わせる罪そのものを、主よ、あなたの御国を来たらせて、これを終わらせて下さいと、罪から私たちをお救い下さいと、罪への悲しみ故、祈ることはできます。早く来て下さい主よと、キリストの御名を呼ぶことはできるのです。そうやって床に就きます。就いては起きて御名を呼びつつ、また横になり、少しでも眠れて、あるいはほとんど眠れいでも、キリストはその床に共にいてくださって、わたしを着ていればそれでよいと慰めとなって下さいます。そうやって怒りからも救われていくのです。キリストが救って下さるのです。それがキリストの体、慰めの教会です。滅びからの救いがここにあるのです。