ヨハネによる福音書20章19-23節、ヨブ記19章23-27節「主の息で復活に生きる」

26/4/5復活祭召天者記念礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書20章19-23節、ヨブ記19章23-27節

「主の息で復活に生きる」

「あなたがたに平和があるように」。本当にそう願います。一人一人に。

平和。聖書が強烈に大切にする言葉です。元の意味では、破れがない。一体である。あるいは裂けた破れが繕われて、一つに戻ってホッとして喜びと慰めと安心がある。そう言えば分かりよいかと思います。

人と人との関係も破れますけど、神様との関係が破けたら、この命が破けた後、どうしたらよいのか。神様は、だからクリスマスに人となり、私たちの代表となられて、関係の破れも命の破れも、わたしが繕うきと、十字架でご自分の命を破かれて、その命で私たちの破れを繕われました。

そして今日の御言葉の日付、十字架の死から三日目のイースターに、「あなたがたに平和があるように」。もう破れは繕ったきね。やき、一つになって生きて行こう。平和があなたがた一同と共にあるように!と、神様の願いが何であるかをハッキリ現して下さったのです。

日本語では、罪を償うという言葉と、その罪による破れを繕うという言葉が、すごく似ている。これ、私たち日本人に対する神様のお心遣いながやろうなと、牧師を20年以上やりよって心からそう思います。

一緒じゃないですか、償うこと、繕うこと。誰だって、関係の破れは繕いたいのだと思います。本当は一つなはずなのに、そうあって欲しいのに破れてしまった関係があると、苦しい。本当に心が血を流しているような苦しみを我慢している人は、少なくないのじゃないでしょうか。あるいは、その痛みを例えばアルコール消毒して取り繕うということもあるでしょうし、色んな取り繕い方を私たち、きっとしてしまうけど。でも、本当は繕われてないのなら、じゃあ、この破れだらけの命が破け終わった時に神様は、おんしゃあ何ちゃあ義しく償っちゃあせんじゃかと、そんな乱暴は言い方はせいでも、結局、自己責任で、あなたに裁きがあるように、自分の結果やお、知らんきという自己責任の神のか。

この御言葉で、復活されたイエス様が弟子たちに向き合った時、どうされたか。この弟子たちは三日前、イエス様が捕らえられ十字架につけられる時、自分は死にたくない、恐いと逃げた弟子たちです。その弟子たちに平和があるようにと言われながら、十字架で釘打たれて太い穴の開いた手と、十字架で死なれたイエス様が本当に息を引き取ったか兵士たちが確認するために、わき腹から心臓目がけて槍を刺した穴を、主は、ほらと見せられた。もし!です。もしイエス様が、これはお前らせいだと、相手のせいにする神なら、いいです、信じなくても。相手のせいにする神に誰が救えるというのでしょう。そんな神、いらんでしょう。

でも弟子たちは、あるいは、その痛ましい穴を見ることはできんかっても、いや、見ることをしなくて良いくらいイエス様が、ほら、わたしやき、双子の弟とかやないき。あなたがたのすべての罪も、怖い言うて逃げたがも、責めんき!責めるために人になったがやないき!すべての罪を皆の代わりに償って、償い切って、命の破れを繕いに来たがやきと。ずっと弟子たちに皆に、そう教えておられたイエス様の愛のお顔を見て、また「あなたがたに平和があるように」と言われた時の、赦しに満ちたお声を聴いて、この救い主を知っていた弟子たちは!聖書にはこうある、「主を見て!喜んだ」。救いの主は生きちゅう!と。

この神様を知っている人は、一緒に喜んで良いのです。あなたがたにと、主が赦しの宣言を優しく告げてくださったのは、私もそこに数えられているのだと。神様との平和の関係に安心してよい。完全な命の償い、完全に繕われて破けてない、もう二度と破けないほど完全にキリストが命を破かれて繕われた、神様由来の平和、この神様との平和の関係を、これが私の救いだと信じて良いのです。

そうやって先に、天にますイエス様の前へ召されていった愛する兄弟姉妹たちも、これが私の救い、この方が私の神様ですと、平和に包まれ、キリストを信じ、今もキリストの平和の救いの内に、憩うておられます。その平和を信じて良いし、その平和が、私にも与えられているのだと、一緒に、キリストの赦しのもとに、はいと憩うてよいのです。

そこに復活のキリストが、信じる弟子たちに、ふぅと吹きかけられた聖霊様の息が、今もキリストから吹き入れられます。人を本当に神様の子供として生まれさせ、神の家族の一員として息をして生きるようにと、平和の神様由来の息が、復活の救い主の口元から与えられます。

そしてその同じ口元から、さあ、神の子として生きるのだから、この赦しの平和に生きていくのだと、言わば神の家族の家訓が与えられます。「赦す」。もとの言葉は「手を放す」ことです。人の罪を、えいで、赦す、神様の赦しと平和の中で生きたいやかと息をする。逆に「赦さない」は、赦すの否定形でなく別の言葉「ギュッと力づくで放さないで握り締める」。そしたらとても平和に生きていけない。だから主は、わたしが償ったき、わたしのせいでかまんき、わたしが死んだき、この赦しの息に、復活に生きようと救って下さる。この復活に、人は赦されて生きるのです。