マタイによる福音書24章3-14節、箴言16章25-33節「終わりの前こそが大切」

26/2/8主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書24章3-14節、箴言16章25-33節

「終わりの前こそが大切」

弟子たちにとっても、不安に思うことだったのでしょう。3節で「そのことはいつ」と、エルサレムの滅びを問う、と同時に「また、あなたが来られて世の終わる時は」と、この世の終わり、最後の審判についても主に尋ねます。旧約聖書の預言でも、当時の事と、遠い将来の事が一つに重ねられて語られます。この御言葉も私たちが、何か自分と関係ないエルサレムの話だと「惑わされないよう」私たちの終わりの話でもあるから「気をつけなさい」と、配慮され重ねられた言葉だとも言えます。説教も同じで、自分と重なると、対岸の火事ではない。自分の事として聴くのだと思います。南海トラフも、百年後に来ますよと言われてたら、たぶん怖くない、自分には関係ない遠い話だと思うのです。

それが人間ならばこそ「人に惑わされないように気をつけなさい」と、主は心から私たちを気にかけ言って下さいます。詐欺電話もそうですが、自分は惑わされないという人が逆に惑わされやすい。反対に不安になりやすい人も、そこに付け込まれやすいことに、うんと主は配慮されます。

不安。この時代から既に、俺メシアという俺俺詐欺があったようです。今の詐欺も、例えば自動音声の電話で、お客様の〇〇カードが第三者に不正に使用されたため、凍結しました、解除するには、1を…で暗証番号や生年月日を教えてしまいやすようです。不安に人は本当に付け込まれやすく、マズイマズイマズイという感情に、つい理性が負けてしまう。

戦争の情報で不安が煽られるのも世の常だから、主は「慌てないよう」ギャーと騒がんよう「気をつけなさい」と心配られます。正しい情報を得ても、心が騒いで余裕がないと判断を間違ってしまう。自分がそこで気になっていることが、情報とバッと感情で結び付いて、例えば、ああ世の終わりだとか。口座止められたらスゴイ困るとか。誰のせい!と、犯人探しをして自分を守ろうとするとか。そうやって「民は民に、国は国に敵対し」あの国のせい、あの民族のせい。自分ファーストで自分を守らんと!と慌てるから「気をつけなさい」と主は言われます。

それが迫害にも繋がるのです。人は、悪い事を、自分とは違う人たちのせいにしやすいから。自分たちと同じ所・良い所よりも、違う部分が気になって、その部分と悪い事が、バッと結びついて、あの人らのせい、教会のせいだと。そればかりか、先の戦争でも起こったし、今の私たちにも他人事でないのは、教会の中でも!自分とは違う部分が気になって、兄弟姉妹で互いに裏切り憎み合うようになるきと、主は注意されます。その中で、神様を信じたに何でと、神様のせいと思いやすい、つまずく弱さもあると思う。しかも少なくないと主は心配されます。その弱さに付け込まれ、これが自分を守るという偽情報に惑わされる人も多いと。

「不法」は律法の真逆です。既に主は、律法全体は主なる神様を愛し、隣人を愛する、愛に基づくと言われました(22:40)。その真逆!である、偽の情報に惑わされたら「愛が冷たくなる」。何で愛さないかん?自分を先ず愛さないかんやかと、心が自分ばっかり見たら、どうして隣人を、まして自分を守ってはくれんと思える神様を!誰が愛するのか。

だからです。そんな自分の思いよりも、これまでずっと聴いて来た「御国の福音」、十字架の神様の赦しの御言葉が義しいですと、御言葉に踏みとどまるよう励まされます。「耐え忍ぶ」の直訳は「踏みとどまる」。言わば台風の暴風で家の瓦も物置も雨戸も吹き飛ばされていく不安の中、家の大黒柱にしがみついて踏みとどまり耐え忍びながら泣きながらでも、我らの父よ、憐れんで下さい、助けて下さい、イエス様と、主の御言葉に留まる中で、嵐が過越し、モーセの時のように、はあ、救われたと。

主は山上の説教(7:24ff)でも言われました。大水が溢れて風が吹き荒れる災害の中でも、砂の上にでなく、岩を土台として建てられた家は倒れなかったと。苦難の中で、永遠に立つ御言葉に信頼し留まる中で、迫害していた人々にも、主のご支配、赦しが証しされ伝えられるのです。

それが世界規模で証しされるというのは、そうした嵐が来ることをも知りながら、それでも、この日本にもキリストの救いを伝えに来られた宣教師たちが、この岩に踏みとどまったからです。そして、その福音を信じてキリストの愛を証しし続けた教会が、嵐の中でも岩に建ち続けたから。だから今日、私たちも同じ岩の上で、同じキリストの御言葉に、はいと留まって、全てが新しくなる日を待ち望みつつ、主の名によって礼拝を捧げているのは、「それから、終わりが来る」からです。

それまでは、こうした、ほぼ人災とも言える嵐は「起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。これらはキリストが帰ってこられる徴ではない。むしろ、その中で人々がキリストに出会い救われる「産みの苦しみ」だと信じてよい。愛が冷たくなる。そうでしょう。でもその中で一層、本当の愛を求める気持ちは強くならないのでしょうか。その愛は、十字架の憐れみと愛の神様は、見よ、世の終わりまで、私たちと共におられますと証しする教会を通して、主は福音を宣べ伝えられます。