26/2/1主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書24章1-2節、詩編118篇19-29節
「先ず心に見えるのは何」
同じ状況を見ているはずなのに、あ、この人には今の状況が違うふうに見えゆうがやと感じる時、ないでしょうか。私は東日本大震災の直後、妻が、東京で赤ちゃん子育て中の兄夫婦のために紙オムツを買いに行くのを見て、ああ私は見るべきことを見ていないと痛感しました。
イエス様は、弟子たちと同じ神殿を見ながら、数十年後この神殿またエルサレムが壊滅的に終わる日を見ておられました。旧約の預言者たちが見ていた、やがて来る破滅を、見ておられました。そして弟子たちも、きっと見ゆうろうと望まれたので、え、見てないが?と思われたのか。逆に弟子たちが、え、何が見えゆうが?と本当に分からん顔をしたので、キリストの弟子たちが見るべき、終わりの状況を教えられます。
それは、でも単純に終末とか世の終わりという怖いイメージの情景を、そこだけ切り抜いて言われたのではない。何故その形で終わるのか?を一番知って欲しいからです。そしたら、その終わりから逃げられるから。
ここでイエス様が見ておられたエルサレムの終わりは、直前の37節で、エルサレムの特に代表者たちが、どうしても自分が正しいと、悔い改めを拒みイエス様から逃げるばかりか、その自分の正しさで預言者を殺し、滅びへと直進する。それで主は、見て!その先は、本当に終わりで!と。魂を絞り出すようにして言われて、あなた方がわたしを見ることはなくなると。言わば別れの決定通告をして、十字架に進まれるのです。
無論、本当は、イスラエルが長く待望してきた救い主を!イエス様を、見て欲しいのです。それ以外にはないのです。でも、どうしても見ん!と、心の何かが邪魔して見えない、見ない、見たくないなら、その先に待つ終わりを見て、どうか心変わりして欲しい。自分の正しさの終わりが怖いと思ったら、間違っていたと思ったら、まだ間に合う内に、悔い改めて、わたしを見て欲しい。帰って来て欲しいから、その心変わりのためにも、罪の正しさが行き着く終わりを、主は今日の所でもハッキリ言われるのです。本当に終わるき。だから今の内に、神様との終わりを、神様との愛と信頼関係の終わりなんかをこそ!終わらせて、帰って来て欲しいがやきと。別れをこそ終わらせるため、主は人間の罪が行き着く終わりを、明確にされます。
私たちの目には、今どんな状況が見えているのでしょうか。ぼんやり見えている言わば周辺などは、きっと記憶にも残らない。でも心に強く入ってくる何かは、目にもシッカリと見えている。単純に気になる何かが強く見えてくる。今日の弟子たちなら、神殿が気になって、あるいは、立派や、と気に入って、ほらイエス様、言う事を聴いてくれん人のことらあ気にせんと、ほら見て、と慰めようとしたのかもしれません。でも、きっとイエス様の死と復活の後では、その同じ神殿が、だから?と全く違って、むしろ悲しい終わりと重なって目に見えたろうと思うのです。
私は18の時に人生で最初のバイトの給料で、これカッコえいと思うて、手錠を買うたと妻に言うと、本当バカだねと爆笑されました(笑)。今も、カッコえい車とか、お、と気になります。でもすぐ、だから?と思う。
だけどイエス様のことは、聖書の御言葉は、だから?と通り過ぎれんのです。特に私たちの将来の現実を教える、例えばコリントの手紙一で、私たちの生き方が家の建築に譬えられる。燃える木やわらで建てるのか。それとも金や銀で建てるのか。終わりの日に、各自の生き方が火で試されると言われる御言葉(3:10-17)は、ずっと意識の根底にあり続けます。私を見ておられるイエス様の目の中で、私は残る生き方をしゆうろうか。愛の貧しい私の何が残るろうと思うたら、何か気に入ったものを見ても、だから?と、それを追い求めて行った先の、終わりが見えてしまう。
イエス様の目に映る神殿は、そこにいた人々は、主の目にどのように見えていたのか。そこに行き交う人々に笑顔が見えても、その人々の先が見えたら、胸が締め付けられるように苦しく、どうにもならんなって、だから、そのために主は、その滅びを背負って償って死にに来られた。その救いの十字架を真正面に見据え続けて、父よ、彼らを憐れみたまえ、憐れみたまえ、赦したまえと、弟子たちと話す時も、人々と話す時も、祈りつつ、執り成しつつ、背負いつつ、愛し続けられたと思うのです。
私が暗い性格なので蛇足で申しますが、これは私たちが毎日暗い顔で生きるべきという勧めではありません。無論ただ喜べば良いのでもなく、讃美歌が十字架の主の勝利を歌うように「恵みと悲しみ一つに溶け合い、いばらは輝き冠と輝く」(142)このイエス様を見ましょうと言いたいのです。赦しの勝利のキリストが気になって気になって仕方ない程、全て成し遂げられて復活されて「見よ、わたしは世の終わりまで常にあなたがたと共にいる」と約束された御言葉に、はいと慰められ、愛を励まされ、今の私たちの状況を、イエス様と一緒に見て進みたいのです。
そこに主を畏れる知恵の道が開けます。十字架の赦しへの感謝と畏れによって建て上げられる生き方、主と共に生きる人生が生まれるのです。