マタイによる福音書5章10節、詩編34篇「迫害される愛の義しさ」

23/5/7復活節第五主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章10節、詩編34篇

「迫害される愛の義しさ」

「義のために」。罪を犯した人を裁くためでなく、救うために、上からお前が間違っているからだと責める代わりに、愚かにも自分が身代わりとなってその罪を償い、赦して、受け入れてくださる神様の愚かな愛の義しさ。を信じ、主よ、あなたが義しいですと、自らを委ねたが故に「迫害される人々は、幸いである」と、十字架の神様が約束されます。

そしてその幸いの理由を改めて、何故なら「天の国」つまり愚かにも愛の義しさを貫き通して共にいて下さる「神様のご支配が!その人たちのものであるから」と繰返されます。ここが一番の急所だからです。

主がこの幸いを教え始められた、上の3節で「心の貧しい人々」直訳は「霊の貧しい、神様を自分の手で持ってない、神様も自分の義も所有してない人々は、幸いである。何故なら天の国、神様のご支配は、その人たちのものであるから」と、これが幸いの理由だと言われた。

何で幸いなのか。何が幸せの理由であるのかと教えられながら、逆にこう問われ続けてきたとも言えます。ではあなたは、どうであったら、自分が幸せだと思うかと。そして、その幸せの根拠あるいは条件として「支配」という言葉が繰り返し強調される。自分を捨てに来られた神様の愛のご支配によって、神様が私をご支配して下さるから幸せなのか。それとも、そんな支配では自分は幸せになれないと思うのか。支配をと元に戻して言い換えると逆にわかるでしょう。その国の憲法では自分を捨てて隣人と共に生きよう、自分の正しさにこだわって人を裁くのは私たちの天の父の義しさではないから、十字架の神様の義しさのご支配に身を置く、柔和、憐れみに生きよう。それが天の国の法、律法です。でも私たちは、他の皆がそうしてくれて、自分は自分を捨てなくてよいなら幸せになれると思うかもしれない。それが、どうして私たちが幸せになれないかの理由ではないかとも思うのです。

すぐ前の「平和を実現する幸い」でも同じことを申しましたが、この幸いの御言葉のすべてが、同じ幸いを別の角度から示しています。いや聖書のすべての頁が、自分を捨てに来られた神様の義に、はいと生きる幸いと、なのにそう生きていない世界の悲しさを告げ知らせているとも言えます。その悲しい私たちを、それでも救うからと自分を捨てに来て下さった神様、イエス様が共にいてご支配くださるから、神様が私たちと共にいて下さるインマヌエルの幸い、神様のご支配に、御心に、その愛の義しさに、自分を捨てて共に生きようと告げる。それがこのマタイによる福音です(1:23、28:20)。

なら、どうしてこの福音に生きよう、この幸いに共に生きようとする時に迫害を受けるのかも、おわかりになると思います。自分を捨てたくない自分の義しさが、否定されたと腹が立ち、いや待ってと追いかけて行って、言い返したくなる、腹が立つと迫害したくなるからでしょう。「激しく追う」が「迫害する」の元の言葉です。その迫害したい気持ちを、私たちはむしろ自分の弱さ、また罪としてわかるのだと思います。迫害される側にいるから幸いだというよりも、むしろ迫害したい気持ちがわかるのが私たちではないか。嫌なのです。自分を捨て、他の誰かに支配されるのが。自分の思い通りにしたい、そしたら幸せになれると、ほとんど狂信的に信じ込んでいる自分の何かのやり方が、それは違うと否定されたら、時に悪魔的な感情で言い返したくなる。うるさいと暴力的な思いで我を押し通したい、相手を支配したい気持ちに、支配される自分を、私たちは知っていると思うのです。

それは「義のために迫害される人々」もきっと同じで、あなたは自分を捨てる神様の義に、幸いにも自分を捨てて生き得たから迫害されたのかと問うなら、いや、むしろ自分を捨てる義を自分は持っていると傲慢な顔をしていたからかもしれないと答える、ペトロのような僕は多いのじゃないか。私たちは自分を捨てる義に生き得ないから貧しいし、6節の「義に飢え渇く」幸いに、そうですイエス様、自分を捨てる愛に生き得ない私たちを憐れんで下さいと、その私たちのために命を捨てられたキリストに飢え渇く。そしてその渇きをキリストに満たされる幸いに、アーメンと、自分をお委ねして生きられるのです。

そのアーメンの中に、礼拝の中、賛美の中に、もうキリストのご支配が始まっているのです。あるいはそのアーメンに腹が立つと、その幸せそうなのが気に入らないと迫害される時も、キリストの憐れみのご支配の内にある。たとえ自分の義が迫害の原因としてあって尚、主は、その罪なら知っているし、その罪を背負ったわたしがあなたに言う、憐れみの義を信じるあなたは幸いである。この憐れみの支配の中で、あなたを迫害する者のため、祈って欲しい。あなたの罪と死に打ち勝った神様の憐れみの支配の中で、悪魔に立ち向かって欲しい。その苦しみと弱さを背負い勝利する、わたしがあなたと共にいるからと、十字架の憐れみの神様が約束されるから、そのご支配、御国を慕い求めて、祈るのです。