ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節、詩編85篇「神様が父となる救いに」

17/9/3朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節、詩編85篇

「神様が父となる救いに」

今日から新しくガラテヤの信徒への手紙から、主の御言葉を聴いてまいります。新しくとは言いましたが、この手紙から御言葉を聴きたいと願った理由は、前回あるいは前々回のシリーズとも同じでして、今年が宗教改革500周年にあたるからです。何で、そこまで宗教改革にこだわるかと思われるかもしれません。ま、500年らあてもう一生回って来んき(笑)、というのもありますけど、キーワードは<改革>です。皆さん、今の生き方、また今の私たちが住んでいる世には改革が必要だと思われないでしょうか。新しくされる必要はないでしょうか。

今朝の御言葉で「この悪の世から私たちを救い出そうとして」という言葉がありました。「この悪の世」と訳された「世」という言葉は、時代とも訳される言葉で、ある一定の期間、あるいは定まってない時間幅を指していう言葉です。世と言うと、世界worldという場所のイメージを思いやすいかもしれませんが、もとは日本語の世という言葉も、例えば源氏の世とか、世が世なら、と、時代のことを世と言った。世代という言い方も、一つの時代に生きた人々を、団塊の世代とかって言う。単に時代や期間という時間のことだけでない。その時間や時代に流されるようにして、例えば戦争の時代には、その流れに逆らうことなど不可能のように思え、あるいは何で逆らうか、これが今の時代だ、これが正しい時流の流れ、当然の在り方だ、何が悪いと、ドンドン流される。今でもミサイルが飛んでくる。戦う準備が必要じゃないか、これが今の時代だと、あるいは時代が繰り返す。72年前の敗戦後、戦争時代には正しいと教えられてきたことを墨で黒く塗りつぶして、あれは悪だったと反省をしたはずのことを、また、時代が変わったから正しくなりましたと言うのか。何が変わったと言うのか。自分は正しい、自分たちは正しいと、自分にとって正しくないと思う人々を愛さずに、やっつけようとする。勝とうとする。そして自分は正しかったという悪を繰り返す。この悪の流れから、神様の愛ではない、人間の罪による濁流のような支配から、人は救われなければならない!と聖書は告げる。あらゆる時代を突き抜けて、すべての時代の人々に、この救いよ、届け!と、私たちのためにご自分を与えて下さった、キリストの救いを告げ知らせるのです。

500年前にドイツの聖書教師マルティン・ルターから飛び火した改革とは、まさにこの悪の世、わけのわからん罪に流されて、けんど流されて何が悪い、これが人間だと、とにかく自分を肯定して、自分は正しいと自分に救いを保証しようとする、人間の人間による人間のための救いに対する宗教改革でした。自分で自分を救おうとする、それは十字架でご自分の全てを私たちに与えて下さった神様による救いではない!と、とどのつまりが、救いに関する考え方、そして生き方が、聖書の御言葉によって改革されたのです。

そこで改めて申しますが、この改革は、あれから500年経った私たちにも、どうでしょう、必要じゃないでしょうか。私たちは自分の救いに関して、どのように考えているでしょうか。この悪の流れから、救われたいと願われないでしょうか。ならば500年前の宗教改革記念日と呼ばれる10月31日の直前に、ルターが研究し講義をしておりました、このガラテヤの信徒への手紙、この御言葉が、改めて私たちの救いに関する考え方と生き方、態度に、改革を与えてくれるでしょう。

では、それは端的に言って、どういう救いか。4節を改めて読みます。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちの罪のために捧げて下さったのです」。

それはキリストが与えて下さる救いです。主語は「キリストは」です。私たちではない。私たちが良いことをしたから、何か儀式をしたから、というのではない。私たちの何かでなく、キリストが与えて下さった、成し遂げて下さった行いが、私たちを救うのです。

この手紙は、その冒頭の1節から「人々からでもなく、人を通してでもなく」と、随分、人間に対して否定的に始まっております。が、それには理由がありました。この手紙が送られたガラテヤ地方の諸教会で、人は自分がやった何かによって救われるんだと、とにかく人間のやった行いとか儀式とか、そりゃキリストを信じるのも大切だけど、結局は、自分で何かをせんかったら神様は認めてくれんき救われん、と教えて、教会を混乱させておった人々がおったのです。キリストへの信仰プラスアルファで、人間の人間による自分の行いがないと救われんと。

この救いについての考え、どこから来たんでしょう。どこから流れて来たんでしょう。天にまします我らの父からでしょうか。4節の御言葉は、こう言ったのです。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちの罪のために捧げて下さったのです」。父なる神様の御心はキリストが私たちのためにご自分を捧げられることでしたとハッキリ告げます。父の御心は、私たちが自分の救いのために自分を与えるのでは、ない!でも人は、そういう救いを認可する神を考えるのは、どの時代でも得意です。例えば、キリストはようわからんけど、神は愛だから、洗礼受けたらその行為で救われると思う。なら神だけで別にえいやかと考える。けれど御言葉は単に神とは言わない。いや言わせん!のです。その考えは隣人との関係も、まして神様との信頼関係も、父の御心も考えない、自分自分の悪に流されているから、けれどその悪からあなたが救われるために、わたしはわが子をあなたに与えた!それがわたしの思い、あなたへの求めだと、父なる神様は言われるのです。

この短い1節から5節までの挨拶の中に、実に3回「父である神」と「キリスト」がセットで語られます。ただし最初1節で「父である神」と言われる時には「私たちの父」とは言われません。1節で紹介される父は、キリストの父である聖なる三位一体の父です。三位一体の御子を人として私たちに与えられ、十字架で私たちの罪を償わせることを御心とされた聖なる父が、御子を死者の中から復活させ、この悪の世から私たちを救い出すための救い主としての言わば役職、権威と栄光を与えられた。その父とキリストがセットで、これが救いだ!と使徒に、教会に福音を託された。それが1節です。しかし3節で、すぐさま!「私たちの父である神と主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、私たちの父である神と、もう大急ぎで宣言する!この恵みとは、三位一体の父が、キリストを私たちの主とされることで、人となられたキリストと私たちを一つとされて、こうおっしゃる救いです。ならばキリストの故に、あなたはわたしの子だ!だってそのために!わたしは御子を与えたのだから、それがわたしのあなたへの思いであり願いであり、それがわたしたちの、あなたに与える救いなのだから、わたしはあなたの父と呼ばれることを大いに喜ぶ、これが救いだ!と、聖書はキリストによって私たちの父となられた神様の救いを告げるのです。

「私たちの父である神と主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。この平和とは、ただこのキリストの恵みによって、神様が父となって下さった、その父と子とされた私たちの関係が、決して壊れない平和を言うのです。全ての罪の行いを恵みによって赦された関係が、行いによって壊れる?決して壊れない!それだけの行いを神様が!行われたからです。だから平和です。だから救われます。この救いの恵みと平和による改革が、私たちを悪より救い出すのです。