26/4/12復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書25章14-30節、ホセア書11章8-9節
「神様と人の関係を思う」
この最後の直訳「そこには嘆きと歯ぎしりがあるだろう」は、24章の最後でも主が言われた同じ結びの言葉です。襟を正す、あるいは怖いき考えたくないと地面に埋めてしまいそうな。でもそれは従わん自分の姿を予想するからかもと、自分を顧みて思うのです。創世記で、この実を食べたら死ぬき、いかんでと言われ、まだ罪を知らないアダムとエバが、はいと受け入れた、健全な畏れを生む御言葉。今の世界でも人が互いを裏切らず共に生きるため必要な言葉というのは、あるでしょう。
「神様と人の関係を思う」という題で御言葉の後半を説き明かします。前半の説教で神様と人との関係は、今でいう雇用主と雇用者・従業者の関係に近いと言いました。無論そこには信頼関係が求められます。が、それが全てではなく、主が、我らの父よと呼ぶように教えられた家族の関係こそ、命で結ばれているという意味で、基本中の基本の関係です。
ただ家族であっても違いはあるし、特に主と僕の関係では、線引きが存在する。それが神様との関係を知る上でイメージしやすかったので、ここでも譬えられますが、今はどうか。なので敢えて別の譬えで言えば、戦前、特に戦時中の日本は、天皇家と国民の関係を、国民とさえ言わず臣民、天皇の家臣である民と呼んだ。家臣なのだから、お家のため万歳と言って爆弾背負って敵に突っ込むのは当然だと。その関係を悪用して、軍の支配層が自分らの思想を正当化する軍事教育を上からやった。
もし!神様と人の関係をイメージする時、これを引きずって重ねたら、主人と僕の譬えは狂います。本当はお互いのことなど知らんのに、家臣なのだから忠誠は絶対だ、という関係を考えてしまうなら、そこに信頼関係が入り込む余地はない。上からの絶対の、強制的な服従しかない、さもなくば死を。そのイメージに反発するのは当然の結果でしょう。
御言葉で主が登場させた最後の僕は、どうも主なる神様を、そういう神だと信じているのです。下の段2行目で「厳しい方だと知っていましたので」の「厳しい」は水分がなくガチガチに乾燥した土地のように何も生えないし、そこで誰も生きられないという言葉です。上から絶対的に、お前は家臣なのだからと強制するなら、そうでしょう。そういう人間は常にいて残念ながらイメージしやすいから、でしょうか。私はあなたを、そういう人だと「知っていました」とさえ言うのです。すると主人は「知っていたのか」元のギリシャ語では、違う言葉で応答します。僕が「知っていましたので」と言ったのは、体験として関係で知っている、聖書では夫婦関係で互いを知っている、またそのイメージと重ねた親密な切っても切り離せない一体の、主なる神様とその民の関係、キリストと教会の関係を教える時の、大切な信頼関係の言葉です。
でも、主人の「知っていたのか」は、頭で知っているという言葉です。そっちじゃないのか?本当にわたしを知っていたのか?勝手に思ったのだろう、そうだろうと、私たちに考え改めを求められる言葉で言われる。だってもし本当に夫婦のように知っていたら、本当に酷いことになると思って、銀行に預けたほうが良いと考えんろうか?本当は、自分の事になってなかったのじゃないか?スッと思いついた勝手なイメージ、偶像を作っただけでなかったか。あるいは埋めたら誰か掘り当てる人がいるかもと思わない自分を、絶対おらんと思う自分を、信頼したのか。
「怠け者」と訳された言葉は、遅いという言葉の変形です。例えば、これお願いねと頼まれ、渋々嫌々、心で、ああもうと、あるいは顔と口に出て立ち上がり足を引きずるように従う姿。私など、ごめんなさいと即座に思う自分の姿ですが、そこに、信頼関係の態度はない。従わんと自分が困るき嫌々やる僕を「悪い僕」と主が言われるのは、他の二人が「忠実な」直訳は「信頼できる」「良い」と言われるのと対照的ですから、それだと信頼できんろう、その関係の態度は悪いろうと叱られるのです。
最後に主が言われた、ドキッと主と自分との関係の襟を正す言葉に「役に立たない」と訳された言葉がありますが、これは例えば大工さんの手に、その道具がピタッと合わないという言葉です。トンカチの握る部分に棘があったり、振る度に金属部分が飛んで逃げるとか。でも逆に、この福音書の11章には、これと親戚の言葉で、手にしっくりくるという言葉もある。イエス様が「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」(30節)と言われた「負いやすい」が、同じくびきを負う肩にピッタリ合う、わたしがあなたと一緒に負って歩んでいくため、あなたのためにわたしが用意したオーダーメイドだから、さあ一緒に歩もうと招かれる言葉がそれです。今日の御言葉の15節で主がご自分の僕たち「それぞれの力に応じて」タラントンを渡された。それは主がその一人一人のことを、ご自分の愛する大切な僕として良く知っておられるから、信頼して渡して下さっている恵みの生き方です。人は何故?生きるのか。では私たちは何のため生きるのか。この信頼できる恵みの主を、我が主、我が神と信頼し、本当に死ぬほど愛されている者として共に歩むのです。