マタイによる福音書25章14-30節、詩編107篇23-32節「預かったがは信頼関係」

26/3/29棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書25章14-30節、詩編107篇23-32節

「預かったがは信頼関係」

これも前回に引き続き、天の国の譬えです。つまり天の父のご支配が、どういうご支配であるかを、私たちが知っているイメージと重ねて教え、そうか、そうでねえと、神様との関係が自分の事になるための配慮です。

次週は復活祭ですので、ヨハネ福音書の復活の御言葉から聴きますが、その次の礼拝でも改めて、この御言葉の特に後半を説き明かします。

今日は、天の父が私たちとの間に、かくあれかし!と求めておられるご支配は、どんなご支配であるかに集中します。

注目したいのは冒頭でこの主人が、直訳は「ご自分の僕たちを呼んで」と「ご自分の」を抜いても通じるのに、敢えて強調している心遣いです。すぐ後で同じ言葉が「それぞれの」力に応じてと訳されます。「自分の力に応じて」。僕たちをまるで同じ既製品のロボット扱いはしない。皆同じことできるろう、やれと上から命ずるのではない。あるいは、私たちが神様のご支配を、そう思いやすいから、神様のご支配の誤解が多いから、どうしてそう思いやすいがやろうと、自分の事になるよう導かれます。

人はそれぞれ異なる。それも無視されやすい真実でしょう。でも違う意味で、神様と人が同等ではないことも、無視されて考えられやすい。そのことは聖書のあちこちで、わたしは人ではないからと強調されます。この譬えでも支配という漢字で言えば、命を配り与え支えられる神様と、人の関係が、主人と僕の関係に譬えられます。ただ、そこにはもちろん、信頼できる関係が求められる、というのがこの御言葉の急所です。今の日本の社会で言えば、会社の雇い主と、雇用者。従業者と言えば、主人に従う僕に与えられた関係が、自分の事として重なりよいでしょうか。

その両者の間に、信頼関係は、求められると思われるでしょうか

この御言葉の主人がご自分の所有を預ける時「それぞれの力に応じて」と言われる。それは「ご自分の僕たち」を、よく見て、知っているからです。例えば、もし私が年間予算5千万円の教会を任されたら、いやいや主よ無理ですと言うどころか、たぶん私は鬱になる危ないと危惧します。「それぞれの力に応じて」という言葉は私には福音の言葉、ほっと安心して、積極的に前向きに、主よ、お助け下さいと祈り、与えられた恵みの力に信頼してお仕えできる言葉です。主が!そう私を知って下さっているならと。それを根拠に、主のご判断を、自分の判断よりも信頼して、はいと、主のご判断に頼れる。それが聖書の言う信仰、主への信頼です。その信頼関係で成り立って前進していくのが、主がその僕たちを用いて行われていく天の父のご支配、三位一体の神様の救いのご事業です。

だから繰返し「忠実な」「忠実であったから」という言葉が重ねて強調されます。直訳は「信頼できる」。神様と私たちの間に信頼の関係がある。それが天の父のご支配に何より求められていることだ、そうだろうと。

そこで主人が、あなたは「少しのものに」忠実だったからと、直訳は「わずかなものに」と言いますが、とんでもない!わかりやすく言うと二人目の僕が預かった2タラントン。これ、約1億円です。え?わずか?でもそこが、人間ではない神様のご支配が、自分の事として分かる入口なのです。神様を、何で誤解するか。人間の尺度で考えるからでしょう。人である隣人と比べても、態度が歪むのに。まして神様を自分の尺度で比べて自分のほうが正しく思えて誤解するのは、もし神様が御子の死によって、ご自分と私たちの関係を示して下さらなかったら、分かりようがないほど、誤解して当前なほど、人は神様を引き下げてしまいやすい。でもそんな私たちを放っておけないから!神様を引き下げる私たちの罪の支配の中に、神様のほうから飛び降りて来て下さって命を引き渡され、これで償いになるから、神様の命と引き換えに、償い切るからと、1億や2億は「わずか」だと言い切れるほど、大きな永遠の富を、主は支払って下さった。それが今週の金曜日に迎えるキリストの受難日の恵みです。主は、すべてを支払い切って死んで下さった「信頼できる」神様だから。私たちの、人と比べては心が歪み、隣人との間でさえ信頼できる関係を喜ぶことが難しいこの世界で、なお人は、この信頼できる神様の恵みに生きられる。一人一人特別に個別に愛されて受けた恵みのタラントンを、感謝して、もっと大きな喜びのために捧げて、この信頼関係に献身して、前向きに歩める。自分と人を比べなくて良いし、比べられて悔しい思いをしても、決して比べられることのない私たちの命の主に向き合って、主よ、あなたが私を本当に無条件に、いや、あなたが私たちを命がけで愛される神様だから!この愛に信頼して歩めることを感謝いたします、御国を来たらせたまえ、あなたの信頼関係のご支配を、もっとこの地に与えて下さいと祈り歩めるのです。

ポリオで幼い時から車いすで生活されている篠浦牧師は、僕が損害を出したとしても、主人は叱らなかったと思うと前に言われた。御子の命さえ損と思わない父が、大丈夫で、やり直そうと信頼を求めて下さる。その御心をこそ知って、私の神様と知って、喜びのために歩めるのです。