マタイによる福音書25章1-13節、ハバクク書2章2-4節「つい眠るから、だから」

26/3/22受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書25章1-13節、ハバクク書2章2-4節

「つい眠るから、だから」

これは「天の国の譬え」つまり、天の父の救いのご支配を、あなたは、自分の内に持っていますかという譬えです。この5人の乙女たちのように、持っているつもり…にならないための配慮を込めて主は言われます。

「ともし火」と訳されたのは「松明、トーチ」です。棒の先が割れて布が挟まれ、花婿が来たで!と言われて、ハイと点火する時、その布に油を染み込ませて、ボッと点火する。燃えるのは油であって、布自体は長持ちする。燃え落ちはしない。けど、もし!油を持ってなかったら、布は燃え落ちて、すぐ消えてしまう。それが乙女たちの目の前で現実になって、どうしよう、どうしようとなる。油がいる!それが松明です。

皆さん、自分が天の父の救いのご支配を持っているかどうか問われる、この譬えで、自分が持っている松明に当てはまるのは、何だと思われるでしょう。松明自体は、10人全員持っちゅうのです。松明持ってない人はおらん。前に山上の説教の終わり7章で、岩の上に建てた家と砂の上に建てた家は、きっと見た目は同じ家と説き明かしました。松明も、皆、持っちゅうね、わ~宴、楽しみやねとおしゃべりもしたのだと思います。この松明、何でしょう?例えば皆さん聖書を持っていて今も開かれたと思います。自分のじゃなくてもえいのです。松明も。讃美歌も。礼拝の栞も。探せばもっとあるでしょう。皆が持っちゅうのが松明です。花婿に会うため、求められている光を持つために、松明を持っちゅうことも、求められはします。が!松明だけなら、すぐ布は燃え落ちる。

では油は、何に当てはまると思われるでしょうか。現代風に言えば、懐中電灯は持っていた。でも電池を!一緒に持ってなかった。私も南海トラフ地震避難用に何年も前に買いました。でも電池がセットになってない少し安い懐中電灯を買って、あるいは買って袋に入ったままで寝室のベッドの下に置いていて、持っちゅうき大丈夫。しかも、たぶんです。生々しい話ですが、その時が来たら、たぶん私の前に光はつかない。闇。この説教を準備しながら、いかん、電池がいると気づいたなら、じゃあ入れたか。忙しくて、まだです。もし今晩がその時なら、私も愚かです。

これをイエス様は強調されました。直訳は「愚かだった。何故なら!松明と共に油を持っていなかったからだ」。この「何故なら」の愚かさの理由を、頭で分からん人はおらんと思います。牧師のくせに電池がいることが何でわからん?と言われたら、いや分かってはいる。その意味で愚かではない。いや、本当の意味で愚かだ、どうしたらえいです?共に今、電池を買いに行って私がライトに入れるがを見て手伝ってくれたら、きっと大丈夫になると思いますと、本気で私は言うと思います。そして、それは自分でしいやと言われたら、それでも愚かなまま、じゃあ明日と、畏れを忘れ思うか。あるいは関係が悪くなることを恐れて、半々の確率で行くかもしれません。でも本当に行くか、本当に分からない愚かさ、畏れない愚かさに手を焼いているのは、私だけなのでしょうか。

約35年前、どうしてもイエス様を私の救い主として必要だと思えんと、自分に手を焼いたのを思い出します。聖書は神様の言葉だと思いました。キリストは私たちの罪を償うため油注がれた救い主という意味も分かる。でもイエス様が必要ですと、どうしても祈れん。自分の力で自分は天国に行ける、頑張ったら愛の人にもなれて世の光にもなれるがやないがと、御言葉と矛盾した自分信仰を持っていることが、分かるのに分からない。神様、何で?何でキリストに赦されないかんがと、油なしで俺は愛の人になれる、神様の愛を持てる、救いを勝ち取れると自分を信じた。35年経って、その愛の人は今どこ?と思う。もう今にも消えそうな燃えカスの布があるだけやかと思う現実を、当時の自分が見たら、どう思うのか。がっかりして、知らん、お前らあ、俺とは関係ないと戸を閉めて、自分の信じる救いを、自分の信じる神のイメージを信じるのか。油注がれたキリスト抜きの神や救いや裁きさえ信じて。

あるいは自分が分かってなかった弱さと罪が、目の前で現実になって、どうしようとなったら、油がいる、神様の赦しがいる、自分では消えてしまうと目が覚めて、自分は神様の前に貧しいと畏れたら、もうそこに天の御国は近づいています。だからこそ御子を罪の償いとされ私たちが家に帰って来れるよう、名前を呼んで下さっている父を、我らの父よと一緒に呼んで、主が教えて下さった祈りを一緒に祈るのです。御国を!あなたのご支配を来させて下さい。私の内にも!父の家のご支配を主によって来たらせ、持たせて、父の子として歩ませ下さいと。そのために私たちの主として油注がれたキリストの名を、だから一緒に呼ぶのです。

私もそうして御言葉の光に照らされて祈った時、「主よ、主よ」と私が呼ぶ前に、むしろ主が、幸生、幸生と呼びに来て下さった恵みのご支配の現実を知りました。自分の貧しさの中で、自分自身の内には私は救いを持ってないと知る中で、だから来て下さった人の子を私の主と知って、その光の中を、キリストの赦しの光の中を、一緒に歩んで行くのです。