マタイによる福音書24章45-51節、詩編119篇129-136節「信頼に忠実な人の幸い」

26/3/15受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書24章45-51節、詩編119篇129-136節

「信頼に忠実な人の幸い」

この「忠実で賢い僕」。イエス様!一体誰がこの信頼できる僕たり得るでしょうと、すがるような気持ちで思います。一体誰が…と。そして、イエス様、あなたが父の御心通りに私たちの罪を負うため、僕となって下さったことを本当にありがとうございますと思うのです。人は神の形に創られた。なのにその愛の形を壊し人間関係を壊し世界を罪で壊してしまった人間の代表となって、御子が死にに来てくださった(20:28)。

そのの御心に、御子が忠実に仕えられての、譬えだからでしょう。「の使用人たち」とは、家の仕事を任されて、同じ家で暮らす僕たちです。家族関係の暖かさがイメージされやすい言葉です。だから、皆の食事の世話よろしくねと任される。この僕たちは大事に思われています。私の妻も、何かで食事を共にできん時、子供のご飯お願いねと必ず言う。幾つになっても大事に思われている。そうでねえと思うのです。25章の最後に「この最も小さな兄弟の一人にしたのは、わたしにしたのだ」と主が最後の審判で言われる。この世界はわたしたちの家、わたしたちは父の家族だろうと、家族の関係で主が見ておられることが示されます。

その家に、主が帰って来られる。45節の直訳には、その前の御言葉で「人の子がいつ帰るかわからないから、備えていなさい」と言われての、「では」という接続の言葉があります。つまり、では、どう備えるのか。忠実な、信頼できる主キリストとの信頼関係を抜きにして備えることはできない、そうだろう?でも、もし!と、聴く私たちが愚かな考え方をしないよう配慮なさったのが、今日の御言葉です。

「忠実な」の直訳は「信頼できる、信用できる」信頼関係があるとも言えます。何故?信頼できるか。「主が言われた通りにしている」から。自分の考えが基準じゃない。自分の考えの方が絶対と感じて尚!自分の感覚が間違っているかもと、主を信頼して、はいと行う人は信頼できる。

逆に、備え?分かっちゅう分かっちゅう全部分かっちゅうと言うのは、たぶん賢くないし、たぶん信頼するのが難しいのじゃないでしょうか。

「賢い」とは「思慮深い」こと。配慮する賢さとも言えます。もとの言葉は、人が生きるために息を吸って吐く「肺で思う」。不安な時は肺が息苦しくなるし、嬉しいと肺で大きく気持ちよく呼吸できる。何も感じない知識の操作で出た正解は、肺で思ってない。配慮がない。思慮深く考える時は、きっと相手との関係を一緒に考えているから苦しくもなるのでしょう。相手の事を考えない楽な答えを求めないから。あるいは、それで苦しくなって肺が圧迫されて息を深く吸えなくてストレスで胸がつぶれそうなのに相手との信頼関係を求め信じ、主の愛を求めるのです。

一転48節で「しかし」、直訳は「しかし、もし、その僕が悪いなら」。この「悪い」も、善悪の悪でなく、天気が悪いとか、心に良く感じない悪さです。つまり信頼できない。相手の事を自分の事として思う思慮、配慮がないから、主人の気持ちも思わず、遅いちや、だってそうちやと、自分が絶対だから。だから「仲間を殴り始め」てしまう。仲間の思いを思い遣ることがないのを「悪い」、信頼できないと主は言われます。

先に触れた25章にもつながりますが、既に主は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われました(18:19)。あるいは殴られた家の使用人は仕事をしていて、何でそんなことすると、怒られやすい僕だったのかもしれません。思慮深くない上役や仲間から、何しよら!と叩かれ、家の主人とは真逆で、彼は大事に思われてない。いや、彼を大事に思う主人の気持ちを思ってないから、主人が一体誰であるかが予想に入ってなくて、主人との信頼関係に心を配ってないから、その主人は「予想しない日に」帰って来ます。「思いがけない」の直訳は「知らない」、自分の事として知らない、自分と関係ある?と思っていた。でも大事な関係があると自分の事として知った自分こそ、本当に遅い。

51節の直訳は「彼を両断し、彼の場所を偽善者たちと共に置くだろう。そこには嘆きと歯ぎしりがあるだろう」。洗礼者ヨハネみたいに首と胴が泣き別れになったら歯ぎしりできません。なのに、この話をされた主のお気持ちを思い、自分の事として主との関係を思い、思慮するのです。

例えば私は寝る時に、何で俺こんなことしたろうと、取返しがつかん後悔を何で何でと考えて寝れん時、苦しくて誰にもぶつけられない怒りで奥歯をギリギリ歯ぎしりしていることがあります。そんな苦しみに、誰にも遭って欲しくないでしょう。だから主は、信頼できる関係の中で、つまり自分を捨てるのが苦しい私たちの気持ちを配慮されて、ご自分のほうから自分を捨てて命を差し出して、わたしの言うことも自分の事として考えて欲しい、信頼して欲しいと、私たちの苦しみを苦しまれて、皆に救いを求めて下さっている。そのキリストのことを思って、自分の予想を修正したらよいのです。そのために主が与えて下さった、主の家の関係に、家族の交わりに、アーメンと一緒に生きていく。そこに主にある赦しと感謝、良かったと喜ぶ幸いが、既に備えられているからです。