26/3/8受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書24章36-44節、箴言1章7節
「知り得ないと知る知恵」
そこで目を覚ましているというのは、どういう目の覚め方を、皆さんイメージされるでしょうか。不安で緊張して怖くて目を覚ましているのでしょうか。先に聴きました「主を畏れることが知ることの始め」とは、そういう怖い怖いという、とてもこの神様は信頼できない、怖いという恐怖を持つことでしょうか。それとも、世の終わり、最後の審判の時、自分の事だけでなく、家族や隣人がどうなるのかと思ったら不安がないはずがない。あるんだけれども、この方が共にいてくださるから、この救い主だからと、自分たちの事では不安があるけど、ただ十字架の主のゆえに安心して、その御言葉に向き合って、目を覚ましていられる。
裁きが、いつ来るかは分からない。でも、いつ来ても自分を安心して委ねられる方を知っており、主よ、私の事はお願いしますと、天に宝を積んだら、そしたら隣人の救いのために、心を使うことができる。この譬えで言えば、共に畑・台所で働く家族隣人に、一緒に箱舟に入ろうと、ノアが備えたように、備えられるのです。いつ来るか、分からんから。
「用意していなさい」とは何を備えるのでしょう。ノアは、御言葉に信頼して、箱舟を造って備えました。ノアの洪水と聴くと、南海トラフの備えに近いようにも思えますが、自然災害なら何をどれほど備えればよいか、過去のデータから目安がわかる。でも神様の審判に対しては、何をどれだけという備えは役に立たない。備えは、モノでも数でもない。人間の知識や知恵では本当に何も分からんのが神様に会う備えでしょう。
だから主は、御言葉によって、決して滅びない神様の確かさによって、わたしのもとに来なさいと、罪の赦しの箱舟に、招き続けられるのです。これが絶対にあなたを救うからと。だからこそ御子自身、父にご自分を委ねられたほどの、絶対の救いが、十字架の箱舟にはあるからです。
御子が父にご自分を委ねられたというのは、十字架で全ての人の罪を償う犠牲として、父はわたしを用いてくださると信頼すればこそ、命を委ねられたということです。そうして、私たちの主、代表として完全に人となられました。私たち人間の罪も弱さも全て完全に背負われました。だから、いつ世の終わりが来るかも、御子は知りません。神様なのに、人として、父に信頼して委ねておられます。敢えて言うなら、今も主は私たちの羊飼いとして、一緒に、その日に備えてくださっています。
だから「備えていなさい」と主が言われるのは、私たちが自己責任で、各自、めいめい一人で頑張って備えるのではない。私たちの前を決して離れることない真実な羊飼いであられる主と共に、その愛と忍耐に感謝して備えれば良いのです。主が、こう備えなさいと言われる通りに。
ノアも、主の御言葉の通りに備えたのです。御言葉の通りに、箱舟を造りながら。私たちは教会を造りながら、御言葉に向き合って、備える。
人々が、それを何も見てないわけでも、箱舟や教会の意味を何も知らないわけでもないでしょう。洪水が来るまで「何も気がつかなかった」と訳された言葉は、体験として知らなかったという言葉です。頭では、遠くから知っていたけど、自分の事になってなかった。でもノアも、何一つ分かち合わず、何も知らせなかったということが、あるでしょうか。
ただ、いつ裁きらあ来る?と聞かれても、本当に知らない。知らないことは答えられない。でも知っていることは、人々と分かち合うために知っちゅうのです。そのために御言葉を知らされているのは、同じです。
私たちは、何を知っているのでしょうか。御言葉から、何を、どんな救い主を、どんな十字架と受難、どんな神様のお気持ちを、御言葉から聴いて、知っているのか。自分の事として、主を畏れ敬って、御言葉を知る中で、「備えなさい」と言われる主の御言葉に向き合う。そして先ず、そのイエス様の名を呼んで、主を呼び求め信頼して、改めて祈り始めるのだと思います。そして改めて、愛し始めるのだと思います。
人の子が来られる時「一人は連れて行かれ」とは、上段31節の事です。直訳は「天使たちは四方から天の果てから果てまで、人の子の選びの者たちを集める」。天使が「集める」。そこで人間ができることは何もない。ただ連れて行かれる。まるで負傷した兵士たちがヘリで運ばれ戦場から救われるように。主の名を呼び、主にすがり結ばれた者たちは、この時、主に所属する兵士として名を呼ばれ、その命の主のもとに集められます。
「だから、目を覚ましていなさい」。それが、いつ起こるか分からないから。でも必ず起こるから、どんなに苦しくても、あきらめなくていい。主は必ず、ご自分のものたちを、迎えに来られる。なら、今どうするか。二つの道に分かれる。いつ来るか分からんき何もしないのか。それとも分からんき、「用意していなさい」と言われる主に、はい主よと、希望を持って、あきらめず、愛する家族隣人と一緒に、永遠の父の家に一緒に帰れるように、主に背負われて、共に備えて生きるか。ノアも一人では救われなかった。教会も、だから一人ではありません。主が共におられ、共に祈り御言葉に生きる主の愛の家族として、共に備えているのです。