26/3/1受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書24章32-35節、イザヤ書55章8-11節
「確かな判断基準を持つ」
「滅びない」。「過ぎ去らない」という言葉です。天と地は過ぎ去って無くなると主は言われます。いや、けんど、この空・天を、どう見たち、無くなりゃせんろうと思いやすい。足元を支える地面も、無くなる言われたち実感がない。そんなことを言うキリストの言葉のほうが、それを神の言葉として伝える聖書の言葉のほうが、不確かに感じる。だって、実感せんもと。人は自分の実感を基準に判断しやすいから。だから主は、ああ、夏が来るねえと実感して分かる話をされます。「それと同じように」わたしが言ったことが起こって、あれ?と実感したら、わたしの言葉を信頼しなさいと、神様との確かな救いの関係に招かれるのです。
少しおさらいをすると「この時代は決して過ぎ去らない」と言われた「この時代」とは、頁を一枚前に戻った右頁下、段落の分け目36節で「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」と言われ、すぐ左で「エルサレム、エルサレム」と主は泣かれる。この後30数年後に「この時代」の特にエルサレムは、ローマ軍によって滅ぼされ、過ぎ去るからです。それで左頁下24章15節以下、その時の状況を主は預言されて、逃げろ逃げろ、わたしを信じて、頼むき滅びからも、その時に出てくる偽メシアからも逃げろと言われた。
それが今日の御言葉34節に戻って、ここ、分かりやすく言い換えます。これらの、わたしが言ったことは全て起こる。全て起こるまでは、今のエルサレムは過ぎ去らないけど、でも全て起こるから。どうか信頼してほしい。そして同じように、わたしが言った世の終わりも起こる。この天地は過ぎ去って無くなる。でも、だからこそ前もって、あなたたちが、わたしを信頼して救われるため、命を注ぎ出して伝えたわたしの言葉は決して過ぎ去らない!すべてその通りに成るから。一つでも、あ、聖書の言うた通りやと実感したら、キリストは本当に来られるがやと信じて欲しいと、主が真剣に訴えかけ、説得される救いの御言葉が、これです。
そこで「悟りなさい」と訳された言葉は「知りなさい」「理解して」と訳される言葉です。主が言われる御言葉を、自分の事として分かったらよい。解脱しなくても大丈夫です(笑)。日本人が小さな頃から、悟りと聞いてイメージするような何か別人に生まれ変わるようなのではない。これ、私の事や、キリストが私にとって重大な、襟を正して向き合わないかん事実を心に訴えかけてくれゆうがや。神様が私に言われゆうがやと、神様に向き合って、神様の前で、はい、と知ればよい。
イスラエルの人々がよく分かって実感する「いちじくの木」の譬えも、日本風に言えば「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」、ああ初夏やねえと。体で実感しながら、心で知ることは、単なる知識では終わらない。鰹、買いに行こうかと、行動へとつながる。
「人の子が戸口に近づいた」のも、そうやって心で、感覚的な実感を持って、今のままではマズイと感じたら、それが「知ることの始まり」です。主に対する畏れ敬いを感じるなら、ほら、そこに入口があると。まだ「全て」を見てなくても、「全て」起こった時には、もう人には何もできんから。神様に対する健全な畏れを、自分の命の終わりと救いとを神様の前で思うなら、主は、わたしの言葉を信じ、その日に備えなさいと言われる。それがこの後に続く御言葉です。大事です。備えるのは。
譬えるなら、式当日に備えている花嫁と、その日を頭では知っているけど備えてない花嫁。私の知る限り、式の日が近づくとダイエットして備える方が多い。当日の自分を予想して、う、このままではマズイ(笑)と実感して、行動に移るのでしょう。25章で婚礼の譬えが語られるのも、当時から、この日が一大事だったからです。「わたしの言葉は決して過ぎ去らない」と約束される十字架の主が、この日は、あなたと、わたしにとって一大事の日やきと。そのために主は全てを投げ出して、私たちが全て赦されて、主と一つに結ばれて救われるために、神様は人となられ、代わりに死にに来て下さいました。人の子となって、全ての罪と裁きと嘆きとを、十字架で引き取って終わらせに来て下さいました。
この人の子が言われるのです「わたしの言葉は決して過ぎ去らない」。わたしの赦しの約束こそ、愛と救いの言葉こそ、決して過ぎ去らない。あなたが、わたしの前を悲しんで過ぎ去っていかないために、すべてを引き受けて、もう葬ったから。それらの過去こそ、すべて過ぎ去るから、わたしのもとに来なさいと、主がすべての人を招いておられる。
結婚式の司式をする時、特に二人が互いに神様の前で誓約を交わす時、ここで嘘のない誓いを私は交わすがやという緊張感を持ったお顔で誓うのを見ると、心から良かった、アーメンと思います。あるいは、本当にこの人と結婚してえいがやろうかと緊張することもあるのかもしれない。人間なら確かにそうかもしれない。人間は不確かです。変わりもする。過ぎ去ってしまうことばかりかもしれない。でも、だからこそ私たちを、決して過ぎ去らない赦しによって救われる、主の御言葉に生きるのです。