マタイによる福音書24章29-31節、ダニエル書7章13-14節「地上のすべての十字架」

26/2/22受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書24章29-31節、ダニエル書7章13-14節

「地上のすべての十字架」

この章の冒頭で弟子たちがイエス様に尋ねた「あなたが来られて世の終わる時には、どんな徴があるのですか」。それに対する答えが、やっと与えられたと言えば良いでしょうか。弟子たちは、どんな思いで聴いたろうと思います。私たちは今どんな気持ちで聴いたでしょうか。

この御言葉のまとめ、急所を、最初に述べておきますと、この人の子の徴を世界が見た時点で、もう人にできることは、何もない。あるいは唯一「悲しむ」だけはできる気もしますけど、あ、いかん、イエス様が帰ってきた、悲しもう。そんな風に人は悲しめません。むしろ悲しみは、やってくる。突然のショックを受けるように受けるしかない。せいぜいグッと、こらえるぐらいしか人にはできない。でも、ここでの悲しみは、もう、こらえようがないのではないでしょうか。

先ず「天体が揺り動かされる」とは、空が揺れるぐらいでなく、その宇宙の中に地球も含まれて揺り動かされる。創世記冒頭、初めに神様が創造された天地の一切が、突然の山崩れのように崩壊し、終わる。怖い話に聴こえますけど、だからこそ悲しむと主は言われます。私たちも、例えば、南海トラフが来る時のイメージと重ねたら、すごく分かる感情だと思います。ああ全て失われる!と思ったら、悲しまないはずがない。

私が思ったのは、何でそんな映画を見たのか分かりませんが、小惑星が地球に衝突する、もう避けようがなく世界が終わる前に、どうするかという映画の最後。家で、レコードを聴いていた主人公が、怖いと泣く女性を優しく抱擁して、最後まで一緒にいるからと慰める場面。私たちなら、どうするでしょう。どうしても避けられないなら、最後に好きなことを、法に触れる、本当はしたらいかん破壊的な行為さえ、したい事をして自分を紛らわせようとする気持ちも、もし!です。天を見上げて、見えるのが、人の子ではなくて、小惑星だったら、わかるんじゃないか。つまり、敢えて言いますが、この御言葉を語られた神様らあおらんなら、御言葉によって造られたのではない地球が終わるのなら、好きなことをする人々を、誰が裁けるのか。もし、神様らあ、おられんのなら。

だから、直訳では「地上の全ての氏族」が、そこに小惑星ではなく、人となられた神様「人の子が来るのを見る」から「悲しむ」。すぐ分かる。神様や。世の終わりと同時ですから、そこに全地上で見えるよう現れたキリストを見て、この方が神様だと。神らあおらんと思っていた人も。いやイエス様が神様だと信じておっても、いや、だからこそ、だったら何でイエス様の御言葉に従わんかったろう、何で?分かってたのにと、信じておればこそ、ごめんなさいごめんなさいと一杯悲しむと思います。

ところで、人の子が天の雲に乗ってというのは、蛇足と思いますが、悟空の筋斗雲みたいのでなく(笑)、旧約の出エジプトの雲です。モーセに導かれたイスラエルの民が荒野を行く時に、主なる神様が昼は雲の柱によって、常にその民と共におられた。神様が共におられる!という徴。いま共に御臨在くださっている神様の、見える徴が「雲」です。

また、人の子を、神様を「悲しみながら見る」という預言も、旧約のゼカリヤ書と重ねられています(12:10ff)。ダニエル書の預言も然り。既に与えられていた約束と幾重にも重ねられて、御言葉が約束してきた「人の子」再臨の確かさが重みづけられます。「ラッパ」の合図もです。民数記では、雲の柱が立つ主の臨在の幕屋の前に、共同体を集めるため、銀のラッパが作られます(10:1ff)。

ただし、人の子再臨の時には、ラッパの合図で天使たちが、選ばれた人たちを集めます。しかも、地の果てからでなく、先に天体と訳された全体規模で!おそらく世界が始まって以来の全ての選ばれた人の復活の規模で、生きて御臨在なさる人の子の御前に、人は、ただ集められる。

この再臨の時点で、人間ができることは何もないからです。だから、ここから続く御言葉で主は、備えていなさいと繰返される。どう備えるのか。今は御臨在の雲が見えなくても「見よ、わたしは世の終わりまで、常にあなたがたと共にいる」と約束される「人の子」の、御言葉の前に集まり続けるのです(28:20)。既に主は共におられるから。見えない時、神様は私と共におられないと自分の悲しみに飲み込まれる時にも。この御言葉が重ねられている創世記(28:14f)、族長ヤコブへの約束のように「地上の全ての氏族」が祝福に入るため、そのためにこそ人となられた神様が、もう共にいて下さっているからです。それで私たちは終わりの日の悲しみを知り、その悲しみを自分のこととして襟を正しながらも、だからこそ、その悲しみと滅びを背負って死にに来て下さった「人の子」に従う。地上の全ての十字架を、人となられて背負いに来られた神様を、私たちの神様!と信頼し結ばれて、その祝福に歩むのです。

取り返しのつかない後悔は自分から来ても、その悲しみを慰める赦しの救いは、ただ受ける、感謝して受けるしかない。罪の悲しみを知りながら、だから人の子として来て下さった神様を、信じて共に歩むのです。