26/2/15主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書24章15-28節、ダニエル書12章1-4節
「惑わされないためには」
敢えて言い換えるなら、美味しいラーメンがある店には、おっさんが集まる(笑)。つまり皆、あ!と見て、すぐ分かる、隠されてないという意味です。ここでは敢えて死のイメージで、世の終わりが人の子の到来と重ねられますが、主の再臨は、皆に見える。隠されてはない。だから、実はこの人が救い主だというのは、全てフェイク偽者だと保証されます。
全ての目が、稲妻のように人の子を見る。それが本当の終わりの時の知識です。先のダニエル書でも「多くの者が動揺するであろう、そして知識は増す」と言われました。主を畏れない救いの知識は危うい。箴言では「主を畏れることが、知ることの始め」(1:7)だと教えられます。「人の子」私たちの死を十字架で負うため人となられた神様が、私たちの終わりをご支配なさるのだと、身を低くして、主を畏れ敬う。そこに、不安の中でも惑わされなくてよい救いの知恵が見出されます。
今日のところでは、その世の終わりと重ねられつつ、この30数年後、ローマ軍によって起こったエルサレムの終わりが預言されます。それを主は、先に読んだダニエル書の11章12章で預言され紀元前に起こった「大きな苦難」と重ねられます。つまり、既に・これから・世の終わりという三つが一つに重ねられます。なのに「今までなく、今後も決してないほどの」と言われるのは、主が、よほど苦しい時の私たちの気持ちをご存じなのです。もっと苦しい思いをしゆう人もおるきと言われても、頭では分かっても、今ここから逃げたいのです。イエス様さえ十字架の前夜、逃げたいと祈られた人の苦しみの実際を、人の子として担いつつ、どうか、言うことを信じて、この滅びから、逃げて欲しいと求められる。それが「人の子」となられた神様だからです。
でもでもと、主を信じられなくなる時にも、主に信頼して良いのです。自分を信じなくて良い。逃げないかんのに、自分だけは大丈夫と荷物を取りに行ったり、自分こそ信じられない行動を取りやすい。でもそんな信じられん事が起こる時こそ、そこで自分が選ぶ判断を、主よ、憐れみたまえと委ね、主の御言葉にすがって、共に歩むことが出来るのです。
突然の、え?え?という状況で、判断できない苦しい時は、なるべく早く楽になる救いに心を奪われやすい。偽情報にも飛びつきやすくなる。え?嘘や、まだ前の生き方を続けたい、前の生活を守りたいという否定と不安の心に付け込んでくる偽者に、惑わされやすくなる。余裕がある時なら見破れるのに。主がどんな神様かを聖書から知っている主の民でさえ、パニックの時、御言葉の知識が負けやすい。そして偽物の救いは、とにかく煽って、慌てろ、慌てろ、そして、ここに提供する楽な救いに飛びつけと惑わそうとするから、信じないように。ついて行かんように。わたしを信じ、わたしに留まりなさいと、主は御言葉をくださるのです。
そこには、人の死を負われただけでなく、弱さを負って人となられた主の、痛いほどのお気持ちも溢れます。身重で、皆がパニックになった時にこそ助けが必要なのに、逆に邪魔扱いさえされやすい弱い立場の人々を思われるのです。障害を持つ人々のこともそうでしょう。
12節でも「不法がはびこるので愛が冷たくなる」と主は言われました。いつの時代でも、自分の事だけで精一杯になり隣人にまで余裕がない時、愛が後回しにされてしまう。自分の事として胸に刺さらない人はいないのではないかとも思います。主よ、弱い私たちを憐れんでくださいと、祈ること、共に祈ることが求められます。「冬にならんよう」とは、単に楽に逃げられるようにということだけではないかもしれません。心騒ぐ時に起こる愛の冷たさから、二次災害が起こらないように。冬の冷たさよりも、人の、愛の冷たさによって人が死んでしまわないように、主よ、憐れみたまえ、キリストよ、憐れみたまえと祈らずにはおれない。
人の、いや自分の愛のなさに凍えて、負けそうになる時、楽な救いに飛びついて楽になりたいと思う時、私は誰を信じているのか、何ゆえに、十字架の神様を信じているのか、信頼しているかが、本当に試されます。自分の信頼が、パニックになっても揺るがない主の御言葉の上に立っているかどうかは、やはりパニックになった時、わかるのかもしれません。その時に、ああ、人が言っていたから信じるのではなく、主が私を思い、言って下さったから信じるのだ、イエス様だから、信頼できるのだと。私の主として、キリストに向き合う時に、私には主が共におられるから大丈夫だと、主によって思えるようになる。人の言葉に惑わされなくて良くなる確かさを、主の御言葉から、はい、と得るからです。
ついパニックになって惑わされて尚、主の御言葉に立ち帰って、ああ、そうだったと御言葉の上に立って、主よ、憐れみたまえと寄りすがって良いのです。私たちの苦しみを、弱さを、一緒に泣いて苦しまれながら、ご自分の痛みとして下さって、共に祈って下さる主に従って良い。「稲妻が東から西へひらめき渡るように」本当に全てを引き受けて完成させてくださる「人の子」キリストの御言葉に、従い、お委ねして良いのです。