マタイによる福音書23章37-39節、詩編126篇「失って気づく愛の奇跡」

26/1/25教会設立記念礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書23章37-39節、詩編126篇

「失って気づく愛の奇跡」

30年程前のテレビCMで「お家へ帰ろう、シチューを食べよう」という歌がありました。寒い外から家に帰って暖かいシチューを笑顔で食べている家族の風景を、本当にいいなと思って見ていました。説教準備の時に、ふとこの歌を思い出し、家…英語ではhouse…シチュー!え、だから、この歌詞?と今ごろ気づきました(笑)。まあ、それだけ暖かいシチューを食べる家族の笑顔の印象で、心が満たされていたのだと思います。

そうやって帰りたいというのは、無論、建物も含みますけど、家は、暖かな信頼の絆で結ばれた家族関係の象徴です。どんな立派な家でも、もし関係が破けちょったら。そしたら、その神様との家族関係の回復のため何度も何度も翼を広げ手を尽くされたけれども、けんど、どうにもならない言わば最終手段として、ではイエス様はどうされるか。

38節以下の直訳は「見よ、あなたたちの家は手放されて、荒れ果てる。何故なら!わたしは言うからだ、今から、あなたがたはわたしを見なくなる。あなたがたが、主の名によって来られる方に祝福があるように、と言うまで、と。」

もちろん、言えば良いという話ではありませんし、もう見なくなると言われたイエス様が、数日後、十字架につけられるため引き出されたのを見て、何な、もう見んようになるがやなかったがかという話でもない。

でも、そう言われかねないほど破れた関係に対し、人となられた神様が嘆き苦しまれ、なのに、あきらめないから、こう言われるのです。

譬えるなら、譬えだと信頼して言うのですが、もし、この礼拝の後で妻から、おいとまを頂戴します、今から後、あなたが私を見ることはありません、さようなら、と言われたら、私は何と言えば良いでしょう。いや言えば良いという話ではない。では、何をすれば良い?という話か。あるいは何を信じれば良い?という話か。私について分かっているのは、二階の家の、牧師館の部分は、本当に荒れ果てるだろうということです。いや牧師としてもやっていけないと思います。それも分かっている上で、これ譬えですけど(笑)、あなたが私を見ることはもうないと言った妻の気持ちは何である!と信じたらよいのか。家は荒れ果てるだろう、心もそうなるだろう、なのに何でそんなことになることを言うのか、ひどいじゃないか、と相手を責めるのが正解ではないことも、きっと分かっている私は、この別れ話を、どう信じたらよいのか。いや、この別れ話の前に、幸生君、幸生君、今まで何度も何度も、言うただけじゃなくて私、頑張ってきたでねえ、でも、どうしても暖かなシチューを一緒に笑って食べる家族の関係を望まんかったでねえと泣かれた上で、あなたは私を見なくなると言われる。その言葉、思い、痛み、いのちそのもの、存在そのものを、どう信じて受けとめるのか。それとも、じゃあ自分もと、うっかり手を放すのか。

うっかり手放さないように、イエス様は「見よ」と、もう見なくなるはずの相手に「見て」と呼びかけます。もちろん注意を促す言葉です。本当に死ぬほど愛している人に見て欲しい!しかも、自分の存在の重みをかけて見て欲しいに決まっちゅうのです。あなたはわたしのことを、どう見ているのか。いや、わたしを見てなくて、わたしのことを思ってなかったから、こうなったのではないか。だったら、見て欲しい!本当のわたしを、求めて欲しい!そうすれば与えられるから!わたしのことだけでなく、わたしたちの本来の家族関係が与えられるから!わたしが命がけで償うから!と、人となられた神様が十字架に死にに行かれる。

そして私たちの代表として裁かれ!死に切られ!完全に償い切られて復活された主が、この福音書の最後で、私たち教会に言われた御言葉は、直訳はこうです「見よ!わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。共にいるから。それはこの福音書の始めにイエス様がどんな救い主として来られたかを告げた御言葉と一つです「見よ!おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である」(1:23)。

この十字架の救い主を見るのです。罪を背負われ、死を打ち破られた救い主を「見て」、そのイエス様が、十字架の主を見ないし信じない家に「わたしを見なくなる」と言われて十字架に向かわれた。そのお気持ちが込められた御言葉を、私たちの命がかかった御言葉として見るのです。「あなたがたはわたしを見なくなる。主の名によって来られる方に祝福があるようにと、あなたがたが言うまで。」別れたいから、見なくなるのではない。もう人間では、どうにもならない決別でも、必ず主を見る日が来るから。それはでもこの後で十字架につけられた主を怒りと呪いの中で見たようにではなくて、そこで怒りと呪いを飲み干された救い主の、赦しの祝福の中で主を見るから、主よ、あなたこそ祝福された方です!と見るようになる。その日を見つめられ、十字架に向かわれた救い主を、だから見よ。この方が人間の罪と死を償い共におられる神様だからです。