26/1/11朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書23章23-36節、ミカ書6章6-8節
「見た目でなく心を見る」
だからその血を、破かれた命の義しい訴えを背負うため、神様は人となられ、天から、私たちの破滅を覆い隠すようにして来て下さいました。その時代のエルサレムが正義の裁きを受けて滅んだように、同じように、この世で人が正義の裁きを受けて尚、最後の審判では赦しを宣言される救いを与えるために。御子は私たちの罪の結果である死と墓を目がけて降り注ぐ赦しの雨のように、十字架で命を注がれに来て下さいました。
その厳しさと慈しみを共に知って欲しくて、厳しい言葉も使われます。主を畏れることが知恵の始まりだから(箴言1:7)。畏れ心が変わるなら、変わって、帰って来て欲しい。本気で皆を家族だと思っておられる神様だから、敢えて「蛇よ」と、彼らが知っている言葉で呼びかけます。蛇と言えば聖書では悪魔、アダムとエバを罪に陥れ、神様に逆らい続ける者です。あなたもその蛇に従って地獄に行くのか。そうじゃないろう!わたしがそれを望まない、いやだ許さんと、地獄の汚れを主が飲まれる。
その33節の「どうして」は「どうしたら」でもあります。どうしたら永遠の裁きを免れるのか。それが神様ご自身の死と赦しによる救いです。
もし自己責任の正しさで、これが正しい救いやき、後はあなたの責任やきの神なら、死にもせんし、悲しみも怒りもされん、所詮他人です。それが本当に神様なら!主の祈りの、我らの父よなんて、偽善です。
でも偽善じゃないから、御子は家族を救うため死にに来られました。
その御子が今日の御言葉で先ず言われた、律法で「最も重要な」とは「より重たい」です。私たちは、何を重く受け止めているのか。自分が重く受け止めるものと、我らの父が重く受け止めておられること、気になることがズレているから、これ!を気にしなさいと求められるのです。
だから続く25節で、外面でなく、自分の心の内側の求めが何であるか、気にしなさいと求められる。心の内側が、自分の気になる、したいことで満ちているのは、言わば神様も同じです。当然のことです。でも何をしたいかです。心が何を欲し、何を求めているか。主の祈りは、我らの父が本当に我らの父とされ、父が喜ぶ家族として生きる生活を求めます。けんど神の家族として本当に生きんでもえいろうと、父から切り離した自分を欲することを「強欲」直訳は「強奪」と言われます。父から子を奪い、家族の幸いを略奪することなど求めてくれるなと。「放縦」は家族の愛の関係から、解き放たれ、自分の自由に縦横無尽に生きることです。愛に、愛することに支配されたくないという求め。わからなくもないのではないでしょうか。自分だけ愛したい。主は、でもそれは不幸だと、迷い出た小羊を、父のもとに帰ろうと、愛し迎えに来て下さいました。
たとえ私たちが死者の骨と汚れで満ちた墓、でも人に見せる正しさで上塗りし化粧した墓のようでも。神様は、その墓の内側へと飛び込んで来られ、汚れを飲み干しに来られたから、死は既に汚れではないのです。
先週、土佐嶺南教会でのお葬儀に行きました。教会では塩を渡さんのです。キリストが私たちの死の汚れを全て取り去って下さったと信じるからです。キリストが、わたしはあなたを、愛の関係を汚す汚れからも、死からも、自由にしに来たから、死から自由になってよい。それが自由だからと。人の死を飲み干し、神様との命の関係を破る罪と汚れの裁きを飲み干されて、もう裁きはわたしが受けた。死は死んだ。古いあなたも一緒に死んだ。だから帰って来なさいと招かれるのです。
29節以下繰返される「正しい人」「義人」の義は、神様との信頼関係の義しさです。その関係の破れを自分の正しさの仮面で隠すのが偽善です。既に偽善者について言われた山上の説教でも「自分の義を人に見られるために人前で行わないよう気をつけなさい」(6:1)と言われました。
先程から汚れが問題とされているのも、自分はこれをやっているから正しいと。外側だけ見せることを続けていると、人に見せるだけでなく、自分に対しても、自分は正しい、自分は正しいとやっていると、私たち、皆どこかで感じて知っていると思うのです。心が嫌な方向に曲がって、あるいは汚れてしまっていると感じることを。心の中と違う自分を人に見せる生き方は、人の信頼を裏切っていることを。また自分をも裏切っていることを。どんなに仮面をかぶっていても、心が知らんはずはない。でも正しいと認められたいと思う。でも何かが汚いとも感じる。義しくないと感じる自分を、だから隠し、でも本当は自分をどうしたらよいかわからないのに、それも隠したい。神様からも隠れたい。まるでアダムとエバから何も変わってない義しさが破れている私たちを、だから主が引き受けられて、わたしがあなたの汚れも恥も何もかも隠し覆って、愛で包み込んで、父と共に赦し受け入れる。それがあなたを本当に生かす命の義しさ、人としての義しさ、神の家族として生きる義しさだろうと、キリストが、私たちを救いに来て下さった。それがご自分の命を、愛の関係を、父の子とされて救われる赦しを、大雨のように降り注がれて、我らと共にいます神様だから、その義しさで身を覆い命に生きるのです。