26/1/4新年朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書23章13-22節、イザヤ書60章1-7節
「一番を一番に始めよう」
その玉座から、天の父が私たちを救うために御子を遣わされました。そのクリスマスの時を教会は今月の6日まで過ごします。それで玄関にツリーも残っています。極道しゆうがではありません(笑)。また敢えて選んだのではないですが、今日の御言葉で新年から不幸が語られるのも、その不幸を背負って幸いを与えに来られた永遠の御子を改めて信頼するため。私たちの罪と死を引き受けて赦しと命に取り換えに来て下さったクリスマスの御子を、愛するため以外にあるでしょうか。
「神殿にかけて誓う者は」に倣って言えば、御言葉を聴く者は、常に、私たちのため命を与えに来られたキリストの御言葉を聴くのです。
その神殿の黄金にかけて誓えばと、反面教師的に、主は教えられます。つまり神にかけて誓うのは、十戒で主の名をみだりに唱えてはならないため、当時の人が、なら神殿にかけて誓うと。それに対し、いや神殿にかけたち意味ない。けんどその神殿を覆う金箔か財宝として保管される黄金にかけて誓うなら、価値が高くて神の栄光を表しゆうき有効という価値観だったのか?主は前の5節で、彼らは人から見られること、人の目に価値あると見られることを気にする、天の父に見られるのではなくて、と嘆かれました。それで22節で、神殿は神様が!わたしがここに一緒に住むき、わたしを無視して生きなよと約束された祈りの家やき、神様を抜きにして誓うがも何をするがも、おかしいろうと気遣って下さいます。
この礼拝堂も、聖餐卓も、また献金も、もし神様に向き合わない礼拝、イエス様を思わない聖餐式、神様に献げないで袋に入れる黄金があれば、いや、その弱さが人間にあればこそ、主は聖餐で「わたしの記念として」つまり「わたしを覚えて」「わたしを忘れないで」と言われます。礼拝で、私たちが意識のスポットライトを当てる信仰の主役は神様です。私たちの信仰心ではなく信仰を養うことでも礼拝に来ることでもない。まして、もし神様との信頼関係ではなく、正しいことをしよったら救われるきと、自分が何を信じ、何を行い、と自分が主役なら、それは自分にも人にも天の国を閉ざすことだ。自分が救いの鍵だと見せるのは、人を自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうことだと、救い主は心配されるのです。
私たちの救いにとって、一番大切な必要は、私たちを背負って救って下さる神様だと、きっと私たち、知っているのです。知っているけど、ふと気づけば、もっと気になる、一番気になっている何かに心奪われて、生き方も何もかも奪われ失いそうになっている。だからこそ主が、これを一番に求めなさいと言われる一番がある。私たちの一番の必要、一番の大事、一番の価値を、でも私の一番として心が求め損ねるところで、主が!わたしと一緒に祈ろうと求めて下さる。その一番!が「天の国」、天の父なる神様の愛と信頼のご支配です。「先ず神の国を求めなさい」(6:33)。一番を一番にと。主の祈りも、そうです。御名があがめられること、天の父のご支配が私たちに実現することは同じです。御名はあがめますけど、そのやり方は私が支配しますというのはない。天の父との愛と信頼の関係である「天の国」父の愛のご支配を、なのに忘れそうになるから、何でイエス様が来て下さったのかも、忘れそうになるから、主は言われます「わたしを忘れないで」。一緒におるきと。赦しの恵みの中にこそ、私たちの幸いがあることを思い出させて下さいます。辛い時、苦しみに胸が押し潰される私たちの心を背負い続けて下さっている主を、覚える幸いがある。その幸いに、皆に入って欲しいのです。
その反対の「不幸」と訳された言葉は、日本語でも使う、いわゆる喪に対して用いる言葉です。嘆く声、泣く声の、おおい、という悲しみを表す言葉です。主がこれを繰返されるのは、まさか不幸になれと言うのではない。どうしてこんなことに!と悲しみを露わにされるのです。
主が山上の説教で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(7:13f)と嘆かれました。その現実を実際に主が見られる時に、胸が潰れそうにならないでは見られない相手の姿が、うめきとして出てくる。その神様の愛のうめきを、あなたがたも一緒に負って、執り成し祈って欲しいと。言葉が通じない悲しみに打ちのめされるところで、憐れみ深い天の父よ、我らの父よと、主が私たちの救い主として、共に祈ろうと、この御言葉を語られます。
赦しは、与えられるからです。不幸は背負われ、十字架に釘打たれ、裁かれ滅ぼされ、キリストの死に飲み込まれ、やがて消え失せる。そのためにクリスマスの御子は、我らの父の赦しのご支配として、私たちのところに来てくださったからです。
そのイエス様が招かれた聖餐式を、この後で祝います。そこで私たちがスポットライトを当てるのは、赦しの主です。わたしを忘れないでと、愛と信頼の関係を求められ、約束される、キリストのもとに行くのです。