マタイによる福音書23章1-12節、詩編138篇「へりくだる心を喜ばれ」

25/12/28歳晩朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書23章1-12節、詩編138篇

「へりくだる心を喜ばれ」

この御言葉から、なら牧師に先生言うがは控えないかんと、「兄弟」と呼ばれたら。お控えなすって(笑)と、やはり言われるかもしれません。まあ、この控えるは控室と同じで、次にご挨拶くださいという意味ですので、私も皆さんを、兄弟、姉妹と呼んで、神の家族として歩む幸いを、天の父の喜びを!分かち合いたい。それは本当に幸いな挨拶です。

お分かりと思いますが、呼び方や形に、こだわるのではない。むしろその、こだわってしまう心に、気をつけようと主は言われるのです。

ここ数十年political correctness略してポリコレと日本で言われる、いわゆる不快語は言い方を変えるという文化が定着しつつあります。が、そこで一番大切なことも、その言葉が出てくる心が、どんな心であるか。既に主が「人の口からは、心に溢れていることが出てくる」(12:34)と言われた心の姿勢。その姿勢で、人と向き合い、神様と向き合う。また自分とも向き合うはずの、自分の心の態度、姿勢を、よく見てごらん、自分の心が、どんな姿勢をしているかと問われるのです。

「モーセの座」というのは聴き慣れない言葉ですが、モーセは神様の御言葉を取り次いで、主とその民の関係を執り成す仲介役です。だからモーセの座から取り次がれる聖書の言葉、主の御言葉は、行いなさいと。御言葉に向き合う姿勢は、そのまま神様に向き合う姿勢だからです。

ところが御言葉を取り次ぐ律法学者たち自身「言うだけで実行しない」。ここ読んで本当に、ごめんなさいと思います。イエス様にも、皆にも。御言葉を取り次ぐ教師なのにと自分の事として思います。聖書の知識はある。でもそれを人の肩に重荷として悪い態度で私も載せゆうがないか、聴く人の顔を見るのが怖くて、イエス様イエス様と祈る時があります。

むしろイエス様は「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。わたしは柔和で心の謙遜な者だから、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる」と言われました(11:28ff)。そのイエス様のもとで、へりくだる心を学ぶところに、安らぎがある。御言葉を重荷にしないで、一緒に御言葉に聴いて天の父の慰めを受ける家族の安らぎがあるのです。

4節の「指一本貸そうとも」の直訳は「自分の指で、その重荷を動かすことは望まない」。つまり自分が負うはずの御言葉に指一本触れることも、望まない。言いっ放し、口だけ。これもナイフのように刺さるのですが、問題は何故?御言葉を担うことを望まないのか。他のことを望んでいるからだと主は答えられます。主の御言葉を、はい、主よと担うのでなく、やるべき事をやりゆうと「人から見られる」ことを望んでいる。それは「人に見られるため」のパフォーマンス、パントマイムで、主の御言葉を担ってはないと。強調点は「人に見られる」です。つまり「天の父」に見られることを望んでない。そこに父との関係が見えるだろうかと。いつも礼拝で唱和する十戒は、やればよいというのでなく、何故行うか、何の戒めなのかを先ず告げます。「わたしは主、あなたの神」。モーセが執り成すのは、この信頼関係です。信頼は、形でなく、心で生きるから。

信頼は、相手が誰であるかという形の知識でなく、私の!誰であると、心が意識し向き合う時、その関係は生きます。地上の相手とも。天の父とも。私の!と。例えば親子の関係の姿勢を、頭の知識でなく心が意識している。私は十代の反抗期の頃、親に何か言いながら、ああ、これは親に向かって言う態度、姿勢ではないなと思いながらも、でも親が悪いと思っていた記憶があります。私たち、反抗期でなくても、今の自分の心の態度はおかしいと心で感じながら、けんどと思うこと、誰もがあるのではないかと思うのです。

そこで「高ぶる」のでなく「へりくだる」とは、どういう心を思い、求めれば良いのでしょう。きっと謙っているように「人に見せる」ことも、できるのです。人に、見せることなら。

だから主は、「天の父」の話をなさるのです。人からどう見られるか、人との、しかも見かけ上の関係でなく、心からあなたを想って常に見ておられる、あなたの父、我らの父のもとに生きようと。へりくだった心を、父の家で安らぐ心の姿勢を、わたしと学ぼうと招かれるのです。

今日の御言葉と重なる山上の説教で、主は言われました「祈るときは、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6:6)。隠したい姿、死にたい姿も、天の父にだけは隠さないでいい。人には隠していい。見せなくていい。でも父には見せてほしい。そこにあなたの慰めがある。安らぎがある。わたしもそこにいてあなたを執り成していると、私たちのすべての罪を、人には隠し通したい闇も汚さも何もかも負われたクリスマスの救い主、飼い葉桶の御子が、わたしが背負って、共にいるからと救って下さる。

私たち、人前に出られなくなる心の状態の時もある。その時は人から隠れて、共におられるキリストと共に、父よと、へりくだる祝福を信じ祈れば良い。その心で御子をくださった天の父の愛を信じて良いのです。