クリスマス・イヴ礼拝説教 マタイによる福音書2章1-12節「大きくて小さい救い主」

25/12/24クリスマス・イヴ礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書2章1-12節

「大きくて小さい救い主」

「どこにおられますか」。その名がイエスだと分からなくても、どんな救いを与えに来たか分からなくても、おられるならと礼拝に来たのです。でも、どこにおられるか分からない。何となくの見当が全くないわけではない。けど自分の力だけでは見つけられないから、人は皆、尋ねるのでしょう。幸せを本当に求める時に、人生の意味を求める時に、神様を求める時に。どこにあるのですか。「どこにおられますか」と。

「ユダヤ人の王」の星を見て、おそらくペルシャから千キロを数週間かけて来たのです。「ユダヤ人の王」なら、エルサレムの王宮におるろう。少なくとも王宮で聴いたら、「王」ながやき、知らんはずはなかろうと。

「ユダヤ人の王」という、全ての人を祝福する王の伝承がペルシャに残っちょったのだと思われます。創世記で主なる神様はユダヤ人の祖先アブラハムに誓われました「地上の全ての諸国民は、あなたの子によって祝福を得る」(22:18)。地上の全て!地球規模、まさしくグローバルな王の伝承と星に導かれ、捜しに来たのです。「どこにおられますか」と。

ところが当のユダヤ人たちは、その王が生まれたのを知らない。え?という場面。わかりやすく譬えるなら、ありえない架空の譬えですけど、カトリック教会の神父さんと話をしよって、前のローマ教皇が来日されたが、いつでしたっけ?と尋ねたら、え?来ちょったが?え?いうて、すごい不安に襲われちゅうがを、もし見たら。え、ガチで知らんが?と思うても、いや分からんがですけど何かそう聞いて…と言うでしょう。

でも律法学者たちは、王が生まれるがは知っちょったのです。けんど、まだ今やないろうと、あまり意識してなかったということでしょうか。

ただ王ヘロデは、本当に知りませんでした。けど知って不安になるのですから意識しているのです。今ユダヤ人の王である自分を失い、今の毎日が失われる怖れは、ものすごい意識しているのです。怖いと。

私自身、王でなくても、夫や父である今の私の毎日を、失うのではと具体的に想像したら不安になります。それはきっと今の毎日を当たり前に思っているから。当たり前と思って過ごしている日々、それを可能にする人間関係も、自分の膝や口が動くという身体機能も。でもそれらが失われて違う毎日が来る可能性を思うと、怖いと思う。今の自分を失うことは、きっと誰もが不安になるのだと思います。

それはヘロデの側にいた人たち、都エルサレムの住民も皆同様で不安になる。王が、また荒れるのではないかと予測したからだと思います。不安の理由。それは王ヘロデが怖かったからでしょう。怖い人がトップにおると、その近くにおる人は、近くに居るだけで怖い。もしその人が不機嫌になったらと思うだけでビクビクし不安になるなら「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と異国人が来て、いらんこと言いなと不安になるのは当然だと思います。

不安な気持ちで毎日を過ごしたい人はおらんのです。そんなの忘れて過ごしたくて、年忘れ言うて飲んで忘れたい気持ちもよくわかる。でも、忘れたいのに意識してしまう、ネガティヴな意味で大きくて怖い存在を意識していたら、逆に自分の存在を消すように隠れるようにして小さくなってしまうことも、あると思います。そうして、ふと死にたいという思いが頭をよぎることも、皆あるのではないでしょうか。

その小さな命を、なら守りたいと思うのが、本当は私たちの当たり前、私たちが他の人から、そうしてもらいたいと願う私たちの当たり前だと、本当は思う。思っているのに、そうでない現実にビクビクし、あるいは自分を守るためにネガティヴな大きな力をヘロデのように使う世界。

この小さな私たちを、神様は大きな力で押さえつけには来られませんでした。むしろ最も小さい人として、もしも力で踏みつけたら死なせることもできる幼子として、神様は、その人間の小ささも罪も、わたしが引き受けるきと、私たちを償い赦して救うため、自分を守る力を捨てた小さな王として来て下さいました。それだけ、あなたの存在はわたしの心に大きいからと。世界の全ての人を負われる、大きな赦しの神様が、地上の全ての諸国民を背負って祝福するために、クリスマスの小さな王として救いに来てくださった。

その王を王として礼拝するために捧げられた「黄金、乳香、没薬」。色々解釈があるのですが、そこに、こう加えることも許されるでしょう。既に言われているとも思いますが、これらが一緒に出る旧約の御言葉があるのです(出エジ30章)。一言で言えば、罪を赦してくださる神様を礼拝するために黄金・乳香・没薬が用いられ聖められ、罪を償う犠牲が献げられ、祈られて、あなたの罪は赦されたと救いの言葉を聴くのです。

小さな王を礼拝にしに来た異国人たちもまた、同じようにキリストに引き受けられて、赦されて、地上の全ての人を背負われて共におられる神様を礼拝する祝福に導かれました。その導きが私たちにも与えられて、今、王のもとにいるのです。救いの王が、私たちと共におられるのです。