25/12/21降誕祭主日礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書1章26-38節、イザヤ書9章1-6節
「クリスマスの主の王座」
クリスマスに「王座」と聴いて、皆さんは何を連想されるでしょうか。28年前、私は神学校の入試の小論文で「椅子について述べよ」と問題が出て、確かこのダビデの王座について書いた記憶があります。王座。王が座っている椅子です。ただ何もせず座っているのでなく、大臣たちが、王様、この件を、この問題をと、王のご支配を求めに来る。裁きの座になることもある。国の治め方を王の責任において決定する時、その王座から決断がくだされ、ここではマリアに天使が遣わされます。
イエス様が未だ人として胎に宿る前から、主は永遠の三位一体の御子として、永遠の救いのご決断をなさいました。父よ、あなたのご計画の通り、わたし自身を全ての人を償うため捧げますから、どうか彼らの罪を赦してお救い下さいと。クリスマスの主は天の父と共に私たちを赦し受け入れて救うことを、罪を償う犠牲となることを、その王座で決定し、私たちの全てを背負う恵みの王として、死にに来てくださいました。
その王座をマリアはここで聴くのです「神である主は、彼(イエス様)に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。「治め」の直訳は「支配する」。だから「その支配は終わらない」と続きます。キリストの赦しによるご支配は終わらない。玉切れにならない。もう赦しはなくなった、赦しはもう切れたとならんから!皆この家で、イエス様と安心して暮らせるがで、おめでとうと。
家を治めるとは、本当にそういうことだと思わされます。「ヤコブの家」は神の民イスラエルの別名です。でも敢えて「ヤコブ」の名が出る時は、名前の由来でもある、相手のかかとをつかんででも自分が先になろうとする、土佐弁で言う「へこすい」という意味が思い出されます。それが「ヤコブの家」だったという、神の民、神の家とは言い難い実情がある。神の家族として自ら「家を治め」損ない続けてきた「へこすい」現実は、でもヤコブだけの話ではないと自分の事として思います。どの家、どの家庭を治めるにも、へこすい力、圧力で治めることはできないと。この歳になって思うので、家族には申し訳なかったと思う待降節を過ごしています。だからこの家を、イエス様に、だから捧げるがやと。この家の王座に、イエス様、来て下さい。本当はそうやって始めたはずなのに、いつも私が、へこすい顔で王座を汚してごめんなさい。赦してください。そして赦しをありがとうございます、私たちの王よと。クリスマスの主が、どんな王であるかを改めて知って、慰められています。そのご支配を与えに来られたイエス様が、そうで、それがわたしやき。おめでとう、この家を治めるがは、わたしやきねと、恵みによって治めてくださる。
天使はマリアが間もなく結婚し「家を」家庭を持つことを知っていたと思います。その上で、その家庭を共に営むヨセフとの子供ではない、聖霊様によって宿る御子イエス様を、あなたは生むと告知する。しかも「おめでとう」直訳は「喜ぼう」、英語だとRejoice!喜ぼうと告げて。
でもマリアは今から自分に起こることを予測したら、喜びにくかったと思います。ヨセフさんでなく聖霊様によって私に男の子が生まれる?イザヤが告げた約束のダビデの子が王としてヤコブの家を治めて下さる誓いは、ヤコブの家にとって喜ばしいことだけど、でも私たちの家庭はどうなるが?私は?と。神様の救いの御言葉が、自分の心とつながらず、不安もあったろうと思います。ヨセフさんは信じてくれるろうか。家族はと。ヤコブの家よりも自分の家の問題のほうが、御子よりも大きくて、神様より高くて、上になること、私たちもきっとあると思います。
その家の一人一人を、神様より自分が大きくなるヤコブの家を、御子イエス様は、だからこそ残さず背負って、家を治めに来て下さいました。どうしてそんなことが?と、理解というより、心で分からない喜べない私たちに、分からないほど恵みの「いと高き」天から、聖霊様が降られ、恵みとしか言いようのない力に包まれて、不安がありながら、喜べないながら、御言葉を受け入れ信じるという恵みが「成る」。
「神様にできないことは何一つない」。直訳は「神様にとって不可能はない、全ての言葉が」つまり全て信頼できる御言葉だからと。あるいはマリアも、私もヨセフさんに家族に信じてもらいたい。私自身から出た言葉ではないけど、神様の言葉だけど!そうか…神様も、私に、信じて欲しいに決まっている。全ての言葉を。神様、私も信じます。あなたのお言葉をと。マリアも、神様の恵みの御言葉に、自分を委ねたのです。
人は相手に信じて欲しい言葉に自分の存在をかけるし、相手にも同じように、相手の存在をかけて信じてもらいたいと願う。そうしてヤコブの家をクリスマスの王は信頼を通して治められます。ついついヤコブが大きくなっても。だからこそ、その家を背負って治められる王の恵みに包まれて、その偉大さ、大きさを知るのです。御子が、わたしの全存在をあげると私たちを救いに来られた。その恵みの大きさ、犠牲の大きさ、終わらない赦しの大きさに包まれて、人はクリスマスの主を祝うのです。