マタイによる福音書22章41-46節、詩編110篇1-4節「神様が人となった理由」

25/12/14待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書22章41-46節、詩編110篇1-4節

「神様が人となった理由」

メシアと訳された言葉はキリスト。その意味は、油を注がれ神様から特別の使命に選ばれた人。特に救いのため選ばれた救い主を指します。そのために人となられたキリストの誕生を、ところがマタイ福音書は、マリアの婚約者、ヨセフの誤解から始めました。それで天使が、違うき、これは聖霊様によって宿った救い主が生まれるが、神様の救いの誓いの実現やきと説得をせな、誤解から、あわや結婚破棄になるところでした。誤解するというのは悪意が無くても、その破壊力は恐ろしいと、多くの人がヨセフの痛みをもって知っているのではないかと思います。

愛する人をさえ信じられず誤解する人間を救うため、神様は同じ人となられました。その神様がファリサイ派の人々に問うのです。何故か?

ここでイエス様が引用された詩編では「あなたの敵を」と言われます。彼らは敵だからか?それで、おんしゃそんながも知らんがかとギャフンと言わせ屈服させなと?敢えて漫画っぽく言いましたが、もし、本当にそんな漫画みたいなキリストのイメージで、ここを読んでいたら、主は、あなたはそれがあなたの救い主だと思うのだろうか、どこからその思いを得たのだろうかと、同じく問いかけて下さると思うのです。

私は、何でイエス様、彼らに質問なさったのか?いや質問の形をした、考えて欲しいという求めを込めた問いかけを彼らになさったがやおか?自分やったら…と考え、思いました。クリスマスに人となられた神様は、私たちと同じ人となられたと先に言いましたが、同じ人として、彼らに誤解をされたまま死にたくないと。きっと多くの人が、誤解されたまま死ぬのは死に切れんと思うように、イエス様も辛かったのじゃないかと思うのです。無論、皆の償いとして死にに来られたのはご存じなのです。誤解されて十字架で殺されるのも天の父のご計画の内で認められた既にイザヤが預言した御言葉の成就であることもご存じですけど、それでも、死ぬほど愛して救われて欲しいと命を捨てる相手に誤解されて死ねるのでしょうか。彼らが聖書の御言葉を知っていて神様の言葉だと信じてもいるのなら、その御言葉から!誤解が解けるのではないかと求めるのは、求め過ぎではないと。きっとわかってくれるのではないかと求めるのは、愛の持つ特権だと思うのです。知って欲しい。誤解を解いて、誤解から解かれて自由にされて、あなたの神を知って欲しいと主は求められる。

そして「あなたたちはメシア(約束の救い主)のことをどう思うか。だれの子だろうか」と問われます。ここでの「思う」は「~という意見を持つ」「~という評判に思える」という言葉です。救い主について自分がこういうイメージ、知識を持っているのは、さてどっからそう思ったのか。ひょっと誤解では?あるいはものすごくあいまいな理解なのではと、自分の事として考えて欲しいのです。特に評判という意味では、皆そう言いよったき、本にそう書いちょったきという言わば他人事の知識は少なくない。ほとんどかもしれません。でも他人事にできない知識もある。先のヨセフのマリアに対する知識は他人には任せられんはずです。その知識に自分の事として責任を持つ必要がある。でも誤解しやすい。自分の事であればこそ真実を避けて、誤解したままになることも少なくないのかもしれません。なら尚のことイエス様は、だからあなたには、真実の神様の愛を、キリストを知って欲しいと。天の父から、あなたを永遠に神の子として救う赦しのご支配を託された王を、王ダビデの子として永遠の御国であなたを治める、あなたの王を、誤解したままでいて欲しくないのだと、愛ゆえの苦しさから求められるのだと思うのです。

先に言いました詩編の「あなたの敵」は、本当は私たちの敵だと思います。それを神様は、キリストの敵だと言われる。本当は私たちが戦う愛と命の戦場に神様が飛び込んで来られて、その敵に突撃しに来られて、あなたをわたしから奪い引き離す敵はキリストの敵だと。私たちを神様から、神の家族の関係から奪う罪と死に対して、神様が憤られるのです。その神様に、また神様が求められる隣人への愛に対し、罪を犯して墓に落ちていく、その責任は罪を犯した人間にあるのに。その私たちの罪と死に対してキリストは、わたしから奪うな!と戦って下さる。その罪の力を、死を!わたしが皆から奪うきと。わたしが代わりに罪犯した者として死ぬなら、罪よ、死よ、これで我が子らは、お前のものではない!と、私たちの敵、罪と死を、キリストがご自分の肉の内に奪い取って死にに来て下さった。神様が代わりに罪裁かれて、死んで私たちを救うために、同じ人となって来て下さった。永遠の神様が!ならその償いに、赦しに、罪と死を神様の死の内に打ち滅ぼすために、本当に来られたその救いの誓いに、けんどおんしは赦さんという例外はない。人間は、罪に負けて、赦さんと、隣人にも自分にも、滅びろと死の宣告をくだしても、その死をご自分で飲み込んで滅ぼすために選ばれた、神様の愛ゆえの死の油を注がれたキリストに不可能はないと信じてよい。ダビデの子は人となられた神の御子だから。その神様の愛の選びに、すべて委ねて良いのです。