マタイによる福音書22章34-40節、申命記6章1-5節「愛する、それが十字架」

25/12/7待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書22章34-40節、申命記6章1-5節

「愛する、それが十字架」

神は愛です。なら神様が求められる一切は「愛に生きよう」に尽きる。これを私は洗礼を受ける前に教わり、たまあ聖書は明快やと思いました。「律法全体と預言者」つまり聖書全体が、愛に生きようと求めている。

では、どう神様を愛したら、愛に生きられるのか。「尽くし」の直訳は「全体で」つまり一部は他の何かに残し、一部だけで愛するのではない。

先ずは「全体」。聖書の意味合いでは「判断」特に「感情的判断」の全体で愛しなさいと。心良く感じる時も、不快で不機嫌だから愛せないと判断しやすい時も、あなたの神様を愛し、その愛の関係につながっていなさい。神は愛だから、さあ来なさいと、神様ご自身へと招かれます。

精神」は「息、生きる力の源」。だから生きること全体でと言えます。

また申命記では「を尽くし」だったのが「思いを尽くし」と言われます。例えば、ここは忍耐せなと力が必要な時、今は父が私の愛する力を鍛えて下さっている時なのだと、神様のお気持ちを思い考え抜く力が、具体的な愛の力になると、うんと現実的に愛の実際が教え直されます。

その神様の愛の現実を、改めて強調するのが「あなたの」という関係です。愛するという行いをするのでなくて、あなたの神様だから愛する。それがわたしの愛するあなたでもあるだろう、わたしは主、あなたの神だと主は言われます。なので「隣人を」の元の言葉も「あなたの隣人を」。後で唱和する十戒の言葉も「あなたの隣人」。つまり他人ではないから。だから主は全ての人を愛し償われ、命を投げ出しに来て下さいました。

それは誰より神様が他人ではないからです。愛し信じたら救われるという何かを得るための対象ではなくて、あなたの神だからという関係が、神様の愛の現実だと。苦しみ痛むほど私たちを愛される神様のお気持ちを「思いを尽くして」知りたい、わかりたいと求めて御言葉に向かう時、もう私たちは神様の愛の中に捕らえられ、愛に生き始めている。

その神様との愛は、直訳で最も偉大だと言われます。でもその神様の心に常にあるのは、最も小さな者を愛する愛だと、これまでも、この後25章でも「この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのだ」と、イエス様は私たちに言って下さいます。十字架の神様の最も大きな求め、それは最も小さな者が愛されることだと。「あなたの隣人を」と言われる時も、そこで主が見ておられる隣人は、きっと小さいのです。そもそも、あなたの全てで愛に生きよと求められる神様を知った私たち自身、私は愛の掟を守れない小さな者だと、たじろぐのではないかと思うのです。イエス様を試した人自身、愛の律法そのものに試されたのではないか。

そして御言葉は、質問した人も周りも、誰もいなくなったかのように、突然ブツっと切れてしまいます。冒頭で主がサドカイ派を「言い込めた」直訳は「沈黙させた」と言われたように、ここでも全員が言葉を失って。そして思うに聖書は、そこから、私を憐れんで下さい、愛をくださいと祈る言葉を、私たちの口に待ち望んでいるのではないでしょうか。

人は自分の愛の現実に打ちのめされた時、神様の愛の求めは、余りにも重すぎる、十字架のように感じるのだと思います。汝の敵を愛せよと、愛せないと思う人を、でも愛してほしいと言われるに至っては、本当に自分を十字架につける愛でしかない。無理です神様、私は愛せませんと泣きたくなる。愛すると思うだけで苦しくなる愛を誰もが知っていると思うのです。イエス様も。この杯を取り除けて下さいと、祈るしかない愛を、イエス様さえ苦しみの中で祈られたなら、どうして私がこの愛の重荷を負えるだろうか。荷が重すぎる。それなのに愛するのが、愛なのですか、愛するのが苦しいですと、十字架にぶら下がった神様を仰ぐ時、その愛がうめく祈りを、キリストが執り成して言われるのです。それはあなたが、もうわたしと共に愛しているから。わたしがあなたを愛した愛で、あなたも、わたしと一つに結ばれて、私の神様、私の神様、何で私を見捨てられたのですかと叫びつつ、あなたの隣人を愛しているから。その愛は、わたしが一緒に負っている。重荷を負う者は誰でも来なさい、わたしが愛しているからと。

クリスマスに私たちが知る救い主のお名前、神様が私たちと共にいて、罪から救って下さる、インマルエルと呼ばれる神様が私たちの苦しみと一つになって重荷を背負われている。イエス様が一緒に愛して下さっていることを信じて良い。私たちが苦しいのに愛を背負い続けているのは、主が私たちの愛を共に背負って愛して下さっているから。だからです。

それが神様の求めの中で、愛すること、赦すこと、共に歩み、重荷を担い、キリストの救いの中に救われて生きることです。だから、どんなに小さく立ちすくむような愛でも、その愛を担われる神様に、私たちはもう死ぬほど愛されて、心にかけられて、ずっと背負われているからと、キリストの救いに慰められて歩んで良いし、また感謝して祈れるのです。我らの父よ、あなたが私たちの父でいて下さって良かったです。あなたの御心が成りますようにと、神様の愛に、共に歩んでいけるのです。