マタイによる福音書22章23-33節、詩編16篇「恥ずいドヤ心を癒す力」

25/11/30待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書22章23-33節、詩編16篇

「恥ずいドヤ心を癒す力」

神様が人としてお生まれ下さったことを覚え、また再び今度は全てを新しくするために来て下さることを待ち望む、待降節を迎えました。

礼拝後は大掃除もします。クリスマスに新しい方々が来ることを待ち望み、祈りつつ、救いの神様にお仕えしたい。自分たちの出来ることでいい。ぜんぶ主が助けて下さると信頼して、クリスマスを待ち望む幼子の思いで、恵みの主に、私たちの望みを託して良いのです。

御言葉には、復活はないと思っていた人々が登場します。サドカイ派。既にファリサイ派とヘロデ派が出てきました。他にもカメハメハ(笑)とか出そうですけど。でも彼らがどんな人かという知識が、イエス様がここで言われる、聖書を知っているということではないでしょう。実際、どういう人々かは、それほど分かってないようです。でも聖書から彼らについて知ることは、何よりも先ず知ることは、彼らのためにも神様は来て下さったという福音、救いの喜びの知らせです。だからイエス様は、どんなに彼らが、ドヤ、復活らあないろうと聖書の矛盾をついたように自分たちが思って考えた話を披歴しても、まっすぐ相手にして下さる。向き合って下さる。そのイエス様を、その神様の愛と恵みと赦しの力を、私たちは聖書から知る。それがアブラハム・イサク・ヤコブだけの神様ではない、私たちの!神様なのだと知るのです。

復活についても、聖書はたくさん教えますし、このイエス様の御言葉も、おお!と目を開かれるような話だと思います。ただすぐに分かって納得してということは難しい。でも聖書からイエス様を知ると、そうか、そういうことかと復活が分かる。気持ちが変えられるとも言える。誰かの言葉を、信じる、信頼するって、その人は信頼できると実感する時に、はいと納得するのだと思うのです。

昨年の新書大賞を取った本『言語の本質』に〈記号接地〉地面に接触で接地、〈記号接地〉ということが出てきます。今日の御言葉に接地するのですが、例えばサドカイ派という、言わば記号としての言葉を、ああ、ファリサイ派じゃなくて、あれねと記号を操作!して何となく会話することを今もしております。が、その言葉が自分の心に接地する、地に足ついて、これや!と実感するまでには至らないのが実情でしょう。でもそれ神様についてもやってしまうので、イエス様は、神様を記号でなく、あなたの神様として知って欲しいと、向き合ってくださるのです。もう少し記号接地を説明すると、例えば1+1=2という記号さえ、いや~、 かわら版の折り作業も、リース教室の奉仕、大掃除も、+1人で2!になったら本当に楽、ありがとうと実感を持って接地する。1×1=1で言うなら、一人でどんなに頑張っても一人の働き、1なのです。+1の恵みの実感!誰か手伝ってくれた喜びの記憶、きっとあると思うのです。

「神様の力」も。私の場合の証しをすると、洗礼を受けた夏、友人に傘を貸したら大雨になって、主よ、授業に行くちょっとの間、雨をやましてくださいと祈ったらピタッ。傘貸いた友人も驚いてましたが、私は喜びと共に畏れも覚えました。そして同じように何度も祈るのですが、都合よく必ずやみはせんことも畏れの実感と共に知るようになりました。祈ったらやむかは知りません。でも憐れんで雨をやましてくださる私の神様を知っている。それが本当に必要なすべてだと心から感謝します。

聖餐式で「主の恵み深きことを味わい知れ」という招きの言葉がある。この言葉も、アーメンと涙をもって知っているキリストの赦しの実感と接地して、赦して下さりありがとうございますと主の恵みを知っている方は少なくないと思います。そしてイエス様は同じように、サドカイ派の人々にも、どんな人にも、神様の赦しの力を知って欲しいのです。

「思い違いをしている」という言葉は、前に出た「迷い出ている」という言葉です。百匹の羊がいても、もし一匹迷い出たらその羊のために、捜しに行くろう、行かいでか、ほいで見つけたら、背負って喜んで家に連れ帰るに違いないやかと言われた言葉です(18:12)。このサドカイ派の人々のためにも来られた神様です。彼らも背負われて、十字架で罪の赦しを執り成して下さったイエス様が、どうしてその神様の力を知らんまま迷い出た羊たちを放っておけるだろうか。できんき!神様は聖書であなたがたに呼びかけておられる。話しかけている!読んだ事あるろう、神様はあなたの神様でもあるがやき。御言葉は、あなたに話しかけゆう、あなたの神様の言葉やきと、主は、私たち皆に話しかけられるのです。

これを聴いた群衆が驚いたと言われますが、ん?サドカイ派はおらん。恥ずかしかったのだと思います。でも、その気持ちから聖書の御言葉に向き直って、神様の話しかけられる言葉に心を傾けたら、きっと憐れみ深い神様の赦しの御言葉を、聖書から聴くことができたとも思うのです。そこに神様の力が働かれます。今もこれからも、主が帰って来られても。

その赦しの御力の中で、希望のもとで、私たちの愛する人たちと共にクリスマスの主を祝えるように、祈って主に信頼して歩んで行くのです。