コロサイの信徒への手紙3章18-21節、詩編131篇「信頼の関係が子を育む」

25/11/9幼児祝福礼拝説教@高知東教会

コロサイの信徒への手紙3章18-21節、詩編131篇

「信頼の関係が子を育む」

幼児祝福礼拝では例年、前半に子供説教をしておりましたが、今年は未就学で教会に繋がる子供がいないため、その部分は割愛します。来年は、ぜひ幼子と共に礼拝を献げたいと願いますが、そのためにも、です。実際は幼児を礼拝に連れてくるのは大変です。泣くかもしれんし、泣かなくても、幼児と一緒にいて礼拝に集中するのは本当に大変であると、おもにお母さんたちから聴いています。それでも礼拝に来たいと思って、幼児の世話で、説教の言葉に全く集中できなくても、讃美歌の頁を開くことさえできなくても、皆で捧げる賛美の中に身を置いて、祈りの中に、御言葉のご支配のもとに、その意味がわからなくても幼子たちがいて、そこに子供たちを連れてきたいと願って礼拝に集う。集いたいと思う、天の父の家での生活を、改めて一緒に築いていきたいのです。

そのための御言葉が、この御言葉だとも言えるでしょう。礼拝でだけ一緒に過ごしたら良いわけでない。むしろ、敢えて言うなら礼拝にさえ一緒に行きたい、あるいは行くのが自分にとって自然なことだと思える家庭生活を、イエス様のもとで共に生きる生活を作るためには、この心がまえで過ごしたらよいと、御言葉は励ますのです。

ここでの基本的な前提は、いわゆるクリスチャンホームです。でも、もし「主」という部分を取り除いても、また時代的に戦後のサザエさん一家が前提としているような、お父さんが偉いがは普通やと思うという人であれば、この御言葉はキリスト者でなくても、そうでねえと自然と共感するのではないかと思います。

特に夫に対して、そうで、まっことで!聖書も良いこと言うやか(笑)という反応を思うのは、いささか漫画過ぎるかもしれませんが、私自身、申し訳ない気持ちにならないでは読めない御言葉です。しかも夫と父親は関係性が違うだけで同一人物ですから、お父さん、あんたが鍵を握っちゅうキーパーソンやきねと、イエス様に笑顔で背中を叩かれるような気持ちになるがやないでしょうか。

そんな夫になら、かわいそうに、仕えてやるかという表現も漫画過ぎますけど、実際「夫に仕えなさい」と訳された元の言葉は軍隊用語で、隊列に配置された下で、という言葉です。つまり夫は夫としての配置・役割・責任が神様から与えられており、妻は妻としての配置、あるいは仕事で言う配属された場所での責任を守りなさいと。また「主を信じる者にふさわしく」の直訳も「主のもとでふさわしく」です。元の言葉のニュアンスで言えば、妻が夫の前でだけでなく、そこに主が共におられたら、そらきっと自分は、こうするだろうと自然に心に浮かぶ話し方や行い、態度で、イエス様が、そう、それでねと肯定して下さる、妻としての自分で夫に接しなさいと勧めるのです。夫にも!主のもとで「妻を愛しなさい」、それがあなたの死守する持ち場だと、十字架で愛の闘いを文字通り死守された「主」が、ねゃ兄弟!と背中を叩いて、愛の闘いを励まして下さる。愛しなさい。つまり妻を守るため自分に死になさいと、私たちを救うため死にに来られた主が、妻だけでなく家庭を救うための闘いは、自分に死んで愛する闘いだと指揮をされて、「つらく当たるな」と言って下さる。ご自身、私たちに辛く当たらないで、その愛の苦しみを共有されるお顔で、ねゃ兄弟、と肩を叩いて下さるイメージは、私は漫画過ぎではないと、御言葉が語るイエス様から本当に思うのです。

子供たちへの勧めに行く前に終わりそうですが(笑)、でもその親の姿を見て、本当に愛の家庭を築こうと親が頑張っている姿を見て育つ子は、自分が自分として生きていく上で、また人と共に生きていく上で必要なのは愛だ、いや、これは自然で当たり前のことなのだと、愛することは当たり前に自分が負っている生きる責任なのだと、見て、感じて、身に着いて育つのではないか。大人を見て育つとは、そういうことでしょう。夫婦でも親子でも、つい相手より自分の事を先ず考えて、自分を愛そうと自然にやってしまっている罪人であればこそ、です。その罪を負って赦してでも、一緒に愛に生きようと自分を捨てられる神様を、この神様を信じたいと!この愛が私たちには本当に必要だと求めるから、無理をしてでも礼拝に来るのでしょう。自分は疲れ果てて礼拝できなくても、いるだけで神様は分かって下さると、うめくような祈りをもって礼拝に来る我が子たちを、天の父が、御子の十字架で私たちを赦される我らの父が、無視されるはずがない。だからその親の愛する子供たちへの勧めも、直訳は「どんなことも両親のもとに聴きなさい」。ただ従えというのではないのです。あなたの親は「主に喜ばれること」を願ってあなたに、こう言っているのだから。神様が喜ぶ愛に生きる人として生きて欲しい。そこに苦しい闘いがあっても、辛く当たりたくなる罪に負けても、主は、わたしが一緒に担っている愛だから、共に生きる愛をわたしがあきらめないから、信じて、愛に生きようと、主が愛の痛みを知る笑顔で励まして下さる。だから信じて良い。そこに必ず祝福はあるからです。