マタイによる福音書21章23-27節、詩編82篇「閉じたミットに投げる」

25/10/19主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書21章23-27節、詩編82篇

「閉じたミットに投げる」

先に詩篇で言われた「神々」は、言わば神々のような高みから他人を見下ろす人々の態度だと言えば分かりよいでしょうか。神殿での礼拝を監督する権威を、言わば律法の決まり上「天から」神様から与えられていた「祭司長」、そして民の言わば自治的な行政上の権威「長老たち」も、あるいは私たちも、ともすると神々になりやすいのではないか。アダムとエバが、神様はいかんと言われたのに、私は良いと感じたきと食べて、神々のようになって、何が良いか悪いかは自分で決めるとなったように。その私たちを、でも神様は、それでも愛するほうが、良い!と選ばれて、実際の神様の権威を、自分を捨ててでも赦して救う権威を示されます。

それは神々のような高みから強権的に、従えとか、愛せとか、自分が愛したいきと、相手との信頼と愛の関係を求めない、独り善がりな求めではあり得ない。逆にそうした自分自分で独善的になりやすい私たちが、どうしたら神様との信頼関係に、はいと一緒に生きられるよう変わるか。ここでの祭司長たちのように、本当に神様の事を思わず、人間の事だけ考えている独善を(16:23)、これやき、いかんがや!神様ごめんなさいと、どうしたら神様に向き合うよう変われるか。この道を主は求められ、洗礼者ヨハネのメッセージを思い出させるのです。つまり「悔い改めよ、何故なら、天の国(神様のご支配)が近づいたから」(3:2)。

あるいは、それが少しでも功を奏したのか?祭司長たちは、自分らが洗礼者の悔い改めへの呼びかけを「信じなかった」自覚はあるのです。けんどヨハネも死んだし大丈夫やおと、自分で保証したのなら、神様が、彼らをどう思っておられるかは考えてない。その保証、大丈夫なのか?

でも「権威」とは、そうか、なら大丈夫と保証するのが権威だと言えるのです。治療の事なら、医者の言葉に権威と保証を感じて、信頼する。つまり権威外の人が何と言おうと、自分がどう思おうと、こっちを信頼して良いのだと実感させるよう助けるのが権威という保証です。だけど祭司長たちは、神様の事を考えず、群衆の反応が怖いと、人間の事だけ。洗礼者ヨハネは、そういう態度がいかんき悔い改めて、神様に向いてと、預言者の権威によって御言葉を伝えたのです。なのに御言葉の権威の外にいたから神様を思わなかった祭司長たちが、自分たちの、大丈夫やお、に信頼し、自分を保証してしまった。あの時のアダムとエバのように。

これを信頼のリアリティ、信仰のリアリティ問題とも言えるでしょう。どっちを信頼するか。神様か人間か、御言葉か自分かを選ぶ時、こっちが信頼できると実感するほうを選ぶ。つまり実感、リアリティを感じるほうを信じる問題です。脳に実感させる神経調整物質がジワッと出て、こっちと実感させる。聖霊様も働かれますが、聖霊様は人間の在り方を通して働かれます。また、人となられた神様が苦しみ悩まれて十字架を担われた時も、怖い嫌だと実感される中で、天の父を信頼されるのです。

こうも言えるでしょう。神殿と民を託された権威者たちは、主の問いに対して、どっちを選んだち自分らはマズイことになると。特に群衆が怖いとパッと実感し、分からんと言うのが良いと実感し信頼した。でもイエス様は、十字架で捨てられるがは怖い、嫌と実感しながらも、罪を罪として完全に裁かれる父への畏れを実感して、その裁きによって人を救われる父のお気持ちを、父の父としての権威を畏れ敬って、父に信頼されました。敬うとは、そっちを信頼することでしょう。それが天の父への信頼、神様を我らの父として信じ敬う信仰、信頼でしょう。

私たちも、様々な怖れや、これはマズイことになると実感をしながら、そこで救いの神様の権威を実感し畏れ敬うのか。人を怖れるのか。もし聖霊様が、神様を畏れろ言うて、畏れの神経調整物質をザバっと注いで、自動的に神様を選べたら、敢えて言っていますが、まあ、うんと楽(笑)。

でも祭司長たちが、誰の権威によって!と、自分らあの権威、むしろ権力を暴力的に持ち出したのも、楽だからでしょう。権威で嫌なことを終わりにしたら楽だと、楽なチョイスをパッと信頼し、権威とか力とか、相手を力で支配したい変えたいと願うのは、人を愛する信頼関係に共に生きるのが、本当に楽ではないからでしょう。自分と違う人を受け入れ共に生きる命、愛する命は楽ではないと、たぶん誰もが知っている。

その私たちを神様が赦して下さる、罪と悪から洗って清めて下さると。隣人と生きることも、父が与えて下さる家族関係の愛と信頼のご支配の中で生きられるように、天の国が近づいたと、洗礼者は命がけで伝えた。だから!命の方向転換を、生きる向きの方向を、神様に向き直そうと。その向く先が「分からない」と言いたくならせる誘惑は、あるでしょう。でも本当は知っている。本当に分からないなら、その方向には私たちの裁きを負い切られたイエス様が待っておられて、来なさいと言われます。わたしがあなたの救いを保証する、あなたの罪は赦された、わたしは主、あなたの神だと、十字架の主が、私たちを待ち望んでおられます。その赦しの神様を、キリストを、思い敬って、信頼してほしいのです。