25/9/28主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書21章12-17節、イザヤ書56章
「もし家に強盗がいたら」
もし家に帰って強盗団がいたら。ゆっくりしいやとは言わんでしょう。盗まれたものも返して欲しいですが、もし、何を盗んだ?盗んでないと言われたら、多勢に無勢で、あきらめるか。イエス様はあきらめないで、それはいかんと厳しく言われます。そして行動でも示される。言葉だけでは分からないからと、きっと思われたからでしょう。
今もそうです。創り主であり裁き主であられる主は、私たちに神様のお気持ちを知ってもらいたい、知って変わってもらいたい、悔い改めてほしいという真実な関係の愛をあきらめないから、行動に出られます。
柔和な王が、ここまでの行動に出られるとは、彼らは祈りの家で何を、誰から盗んだのか。神様のお気持ちを思って考えて欲しいのです。何を盗んだのか。誰から盗んだのか。
すっと思い出したのは、昔のアニメ、ルパン三世カリオストロの城の、銭形警部の名セリフです。「奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。」十代の乙女に、ようそんな歯の浮くセリフを(笑)と、思い出しながら笑ってしまいましたが、もし!もう現実に戻りますが、もし盗まれたのが私の妻の心だったら、と、夫の心・気持ちで考えたら、本当にとんでもないものを盗まれてないか。因みにアニメは創作として私も好きなので、批判しゆうのじゃなく、神様のお気持ちが自分の事となるための譬えとして引用したんだと、ご理解くだされば幸いです。
心を盗まれる。愛する心を。この祈りの家には神様を愛し信頼し祈るために、神様に礼拝を捧げに来たはずなのに、神様に献げる心を、もう盗まれていたら、神様にはどんな残り物が与えられるのか。いや、何が誰から盗まれたという理解も盗まれて分からなかったのかもしれません。
祈りの家。私たちで言えば今、主に礼拝を捧げているこの同じ空間で、譬えれば献金は新札以外いかんと後ろに両替係がいて、手数料200円ね、毎度、前に座ってと。礼拝する空間で!けんど決まった礼拝のやり方を、決まった通りにやればえいがやきと。これをしたら、神はこうするはず、災いから守って良いこともあってと、心抜き、愛する信頼関係抜きでの、これしたら、こうなるはずという法則を信じる、宗教に心が奪われたら。本当は神様に捧げる心が!もう盗まれていることも分からなくなる。え、だって皆そうしゆうやか、皆そうやか、何がいかんが?と。
今と違って、当時の神殿境内は異邦人が来て主を礼拝する特別な空間でした。イザヤ56章で、異邦人も、わたしを愛して献げた犠牲は受け入れるきと主が言われたのに、外でできる両替を中で行うのは、異邦人を軽んじるからじゃないのか。神様を愛する心が盗まれたら、兄弟姉妹を愛する心も一緒に盗まれて、自分だけ愛する心になる。そしたら御心の、と祈りつつ、もう父のお気持ちは思わない、父の心抜きの、何をしたら上手くいくかという法則に御心が取って代わられて、盗まれてしまう。
ここで律法学者たちが、神殿礼拝を司る祭司長たちとは仲が悪かったのに名を連ね、主に反抗するのも、彼らが律法主義、法則の支配に心が盗まれていたから。そう御言葉はずっと告げて来たのではなかったか。
だからでしょう、苦しんでいた人々が癒された奇跡を見た子供たちが、ダビデの子にホサナ、本当に救い主ながや、すごい!と叫ぶのを聞いて、怒るのです。子供に八つ当たりでしょうか。神様のことを分かりもせん子供が、間違った礼拝をしゆうき、奇跡かなんか知らんが、訂正しろと、怒るのは、神様も子供を認めんと自分が!思っている自分の心の表れか。律法の学者なら、では聖なる律法のどこから神様をそう信じたのか。
主が彼らに、御言葉から答えられたのは、怒るあなたこそ、御言葉も、神様も、分かってないではないか。でも分かってないことが分かったら、御言葉に聴きなさい。こうしたら、こうなるという法則などではなく、神様のお気持ちを知りなさい。御言葉は、幼子の口に神様が賛美を与えられると教えているのだから。そうやって幼子の賛美を受け入れられる神様なのだから。あなたも小さな頃は、そんな幼子ではなかったのかと、御言葉を思い出させ、その御言葉の神様に愛されていた小さくて貧しい自分を思い出させているのだと思います。
昨日の教会学校の礼拝でも、御言葉によってご自分を現される神様を、一緒に賛美しました。さんびかで「神様の心が分かってくるよ、聖書のお話皆で聴こう」と歌いながら、本当にそうだと思いました。小さい者にこそ神様が心を注がれて、深い憐れみの内に愛し受け入れて下さる。一人の掛け替えない人格として幼子を重んじられ愛される、我らの父の心を、その深い憐れみの心を、御言葉から知って欲しいのです。法則に閉じ込めることのできない、愛を、そんな愛で誰も愛されたくはないと本当は自分の事として知っている生きた信頼関係の心で、我らの父が、愛してくださり、同じ愛を求めて下さり、この我らの家で共に生きよう、それがわたしの心だからと、キリストの命がけの赦しによって保証して、求めて下さっている。その父に、我らの父よと、心をお返しするのです。