マタイによる福音書21章1-11節、ゼカリヤ書9章9-10節「王がパレードで軽に?」

25/9/21主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書21章1-11節、ゼカリヤ書9章9-10節

「王がパレードで軽に?」

「預言者イエスだ」。どういう意味で言ったのでしょう。「ダビデの子にホサナ」とも叫んでいます。言い換えれば、約束の救いの王、万歳と、この方が旧約で約束されていた神様からの救い主メシア、ギリシャ語で、キリストだと賛美していたとも言えます。直前の場面で、ダビデの子よ、主よ憐れんで下さい!と叫び求めた目の見えない人たちを、イエス様が深く憐れみ癒されたのを見た群衆は、すごい!まっことダビデの子や!約束の救いの王や!と心に焼き付けられたのだと思います。

ただ、約束された人の子、つまり罪を裁かれる自分たちの代表として人となられた神様と信じたのではない。それでこの5日後、この群衆が、惑わされ、あおられ扇動されて、叫び続ける「十字架につけろ」と。

ならイエス様を預言者と思ったのは、神様に選ばれたすごい人やけど、神様じゃないという思いが「預言者イエス」と、口から出たのでしょう。今も大勢の群衆が、それがイエスだと信じているという調査もあります。そうした私たち、我らを「赦したまえ」「悪より救い出したまえ」と主は十字架で背負われる「柔和な」王だと、御言葉は教えるのです。

その柔和な王、イエス様による救いのご支配のイメージが「荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と預言され実現した王の姿です。「荷を負う」と訳されたのは「くびきのもとにある」という言葉です。「柔和な方」とセットで思い出すのは、主の招きの言葉です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:29f)。くびきを負うとは、一緒に歩む、一つの関係に結ばれて共に歩むという表現です。私たちの罪も死も命も全て一緒に負って歩んでくださるために人となられた十字架の神様が、ほら、わたしはこの子ろばのようだ。あなたを負う。一緒に人生を進んで行く。あなたを背負って。喜びも痛みも共有して。そのわたしを信頼して一つの関係に結ばれて共に歩もうと招かれる。その十字架の神様を、はいと信頼し洗礼を受けて一つに結ばれる。救いの「くびきを負う」のです。

その意味が群衆は分からなかったけど、自分なりの信じ方で誤解して信じ、あるいは意味も分からんままホサナと賛美したのかもしれません。その意味は「お救いください」です。柔和な王は、その叫びを、そうだ、わたしが救うからと、受け入れて下さる柔和な王だ。この世の王が軍馬に乗ってパレードするのとは違う。言わば軽トラックの荷台に乗って、いや十字架の上につけられて、わたしのもとに来なさい、責めないから、全て受け入れるからと、分からないまま「お救い下さい」と叫ぶ群衆を、背負って歩まれる王なのです。柔和だから受け入れる。王として!厳粛に受け入れるとも言えるでしょう。えいえいと無責任に何も負わないで受け入れるのではない。誤解が痛みをもたらす結果を産んでも、それも引き受ける自分を捨てる覚悟で、誤解も無理解も受け入れる。でないと共に生きていけない弱さと罪がある。そうじゃないでしょうか。

受け入れるとは、何も変わらなくて良いと認めるのではありません。十字架の王が、本当は変わりたいと求めているのだろう、もしそうでなくてもわたしが求めていると、そのためにご自分を捨てて背負われた。その愛に、誰より私自身が受け入れられて愛されていると、イエス様の私に対する柔和なご支配に支えられているから、私たちも厳粛に柔和に受け入れるのでしょう。十字架の主よ、どうか、この人を、この問題を、この痛む人生を、一緒に負って下さい、柔和に受け入れ愛するくびきを、どうか主よ、一緒に支え、担って下さいと、主と一つに結ばれた救いの歩みを、神様の愛のご支配の内に、背負われて歩むから、ようやっと、主との信頼関係に支えられて歩んで行ける。何度も何度でもイエス様が、わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い、そうだろうと。え、イエス様、軽くないけど、でも、あなたが一緒に負ってくださるから、負えます、ありがとうございます、あなたが私たちの主で、本当に良かったです、助けて下さい、ホサナ、主よ、私たちをあなたの恵みと信頼のご支配の内にお救いくださいと、ただただ信頼の賛美を、十字架の愛の主に、お献げすることができる。

分からないままの賛美も十字架の主は受け入れて下さる王ですけど、私の主よと信頼の中で向き合って歌う賛美を、主がどれだけご自分の事として喜ばれるか。人間関係でも、この人は私のことを分かってくれていると感じたら自然に喜ぶ。あなたが私のことを分かってくれるあなたで良かったと、その存在を祝いたくさえなる。それが祝福でしょう。

なら尚のことイエス様は、あなたがわたしの気持ちを分かってくれて、受け止めて、わたしを受け入れてくれて良かった、あなたはわたしへの祝福だと、私たちの賛美の中に住まわれる、救いの人生を共に歩まれる王なのです。その柔和な王の祝福の内を、共に歩んで行くのです。